◇ ◇ ◇
彼と過ごす時間はとても楽しく、充実したものでした。
夏休みの間に彼は何度も遊びに来てくれました。その度に私は手作りのお菓子で迎えるのです。
愛莉に教えてもらった料理を振る舞ったり、一緒にDVDを観たり、彼が持ってきたゲームで遊んだり。
でもやっぱり一番楽しいのは彼と話す時間です。
私も彼も読書が好きで、互いの愛読書を教え合ったりしました。
彼の学校生活を聞くのはワクワクしましたし、私の小さい頃の話をするのはドキドキしました。
本当に楽しい時間でした。
ですが、それも長くは続きません。
時間は限られていました。
それは仕方ないことです。九月には戻ると、父と約束したのですから。
「お別れ?」
八月三十一日。夏休み最後の日。
私は彼と最後の時間を過ごしていました。
ただそれは、彼にお別れを告げなければならない時間で、
「ごめんなさい……もう実家に戻らないといけないんです」
彼は突然のことに驚いたようでした。
「いつまで?」
「……わかりません。次にいつ会えるかも、ちょっと」
「……そう、なんだ」
彼はひどく残念そうに呟きました。
もっと早くに言っておかなければならなかったのに、結局ギリギリまで言い出せませんでした。私はいつもこうです。本当に自分に呆れます。
彼はいつも私に優しく手を伸ばしてくれるのに。
私はいつも彼にちゃんと応えられなくて。
さしのべられた手をせめてうまく取りたいと思うのに、私はそれさえ不器用にしかできなくて。
最後まで私はこうなのでしょうか。
「もう会えないの?」
「……わかりません」
「ならぼくが会いに行く。それなら」
「それは嬉しいですけど……遠いですよ?」
実家の住所を言うと、彼は嘆息しました。
「……遠いね」
「……遠いです」
行けない距離ではありません。半日もかければ行ける距離です。でも彼は学生ですし、決して簡単な距離ではないでしょう。
私は悲しく思いながらも彼に言いました。
「……会いには来ないでください。私、甘えてしまいます」
「甘えるなんてそんな、」
「いえ、私は甘えています。愛莉にも、親にも、……あなたにも」
私は自分の気持ちを素直に告白しました。
「いつまでも怖がっていてはいけないんです。私はあなたの隣に立ちたい。けど今の私では、弱いままの私では駄目なんです。あなたの隣には立てません」
「……」
「だから……待っていてください。私、必ず戻ってきますから」
「……戻ってくる?」
「……はい、きっと」
やることは決まっています。彼の隣に立つために、私は努力しなければなりません。
そのためには私自身が変わらなければならないのです。
大丈夫、と自分に言い聞かせます。必ず戻ってこれます。
私は、取りたいから。
彼の優しい手を、取りたいから。
「……きっと」
彼が私の手を握りました。
「待ってるから。きっと、またこうして……」
その手の温もりを胸に刻むように、私は深く頷きました。
「はい、きっと……また」
実家に戻って、私は父と母にこれからの目標を伝えました。
愛莉は私のすることにすぐ賛同してくれましたが、両親は少し渋りました。私の目標はあの街にまた戻ることだったからです。
できれば家族一緒に暮らしたいというのが二人の希望でしたから、私のすることはこれに反することになります。でも私は引く気はありませんでした。
彼と約束したのですから。
愛莉のフォローもあって、両親は私のすることを認めてくれました。
これも甘えなのかもしれません。しかしこれまでの甘えとは中身がまったく違います。
惰性じゃなく、私はきちんと目標に向かっているからです。愛莉に言わせれば一年遅れということになりますが、まだ間に合います。
私は家に閉じ籠ることもなく、積極的に外に出るようになりました。
恐怖に立ち止まることはもうありません。
彼と会えなくなることの方がずっと恐ろしいからです。
約束を果たすには、もう今までの私では駄目なのです。
怯えず、閉じ籠らず、世界をありのままに受け入れて、ちゃんと生きていかなければなりません。
そうすることで彼と手を取り合えるような気がするから。
そして、半年が過ぎました。
◇ ◇ ◇
秋が過ぎ、冬を越えて、私はまた春を迎えました。
彼を初めて見掛けたあの日から、もうすぐ一年になります。
その日、私は朝から家の前に出て人を待っていました。
実家の屋敷ではありません。去年愛莉と二人で住んでいたあの家です。
半年振りに私はこの街に戻ってきました。
少し緊張します。でも、不思議です。前とは違い、恐れはまるでありません。
私は胸の高揚を抑えるように、深呼吸をしました。
やがて、待ち人が現れました。
以前と変わらず、ちゃんと家の前を通ってくれます。
私は道の真ん中に立ち、その人を迎えます。
彼は少し背が高くなっていました。制服が細身の体にフィットしてよく似合っています。
彼は私の姿を認めて、驚いたように立ち止まってしまいました。
私は下ろし立ての服を見せびらかすように、袖を軽く上げました。
「お久しぶりです」
彼は目を何度かしばたたきました。
「……え? なんでここに。……いつ? ってそれよりその制服、」
彼は混乱しているのか、私の『制服』姿に取り乱しています。
予想通りの反応に私は愉快な気持ちになりました。
「驚きました?」
「あ……その」
彼の歯切れ悪い声に私は答えます。
「こっちに戻ってくるときは、ちゃんと受験し直そうと思っていたんです。一年遅れの高校デビューです」
「いや、それ意味違う……」
「半年しかなかったから結構大変でした。でもおかげで大分成長したと思います。塾にも通って、人もあまり怖くなくなりましたし」
「……」
彼の呆気に取られた顔を見ると、自然と笑みがこぼれます。
「とりあえず、二年間は一緒です」
「……うん」
「そこから先はわからないですけど……できれば、一緒にいたいです。ずっと」
「……うん。ぼくも、君と一緒にいたい」
「……あは、なんだか告白みたいですね」
私は照れ隠しにそんなことを言いました。前の私なら絶対に口に出せない冗談です。
彼は一つ肩をすくめました。
「……そのつもりじゃ、ダメ?」
その言葉に私の笑顔が引きつりました。
彼は清浄な朝の空気の中で、ひどく澄んだ声を響かせました。
それともそう聞こえたのは、私の心持ちのせいだったでしょうか。
「ぼくは君が好きだ。だから、恋人になってほしい」
冗談なんかではありません。彼の唇はぎゅっと力が入って、噛み締められていて、緊張が窺えます。
私はそれを見て妙に心が落ち着いていました。
高揚はしています。生まれて初めて告白を受けたのですから、当たり前です。
ただ、それとは違う部分がとても落ち着いていたのです。
心のどこかで、私はこうなると予期していたのかもしれません。
多分、あの夏休み最後の日からずっと。
でもあの時の私では、きっと受け止められなかったでしょう。
隣に立つこともままならない私では、彼の想いに押し潰されていたかもしれません。
でも、今なら。
私はその手を、想いを、受け取れる。
「私も、好きです」
私は小さな声で、しかしはっきりと応えました。
彼の顔がぱっ、と輝きます。
「それじゃ」
「はい、これからよろしくお願いします。『先輩』」
私は丁寧に頭を下げると、同い年の先輩に手を差し出しました。
握られた手の温もりが溶け合うように、胸に刻まれた記憶と重なりました。