◇ ◇ ◇
言葉を交わしてから二日後。
彼が私の家に来ました。
この一軒家に誰かを招くのは、家族以外では初めてのことです。
彼はリビングのソファーに座りながら、若干緊張の色を顔に浮かべていました。
私だって緊張します。男の子を家に招くなんて初めてのことですから。胸が妙な具合にドキドキうるさいのも仕方がないことです。
愛莉は何を考えているのか、彼が来てからニコニコしっぱなしです。まったく何を考えているのか。
「あ、あの」
彼が控え目に声を発しました。
「は、はい!」
「あ、いや、ちょっと訊きたいことがあって」
私の力一杯の返事に彼は気圧されたのか、やや身を引いて言いました。
ああ、もう少し落ち着かないと。いえ、今はそれより、
「なん、ですか?」
「この家に入る時に表札が見えたんだけど、『池田』って書いてあったんだ。でもその、君の苗字とは違うから、気になって」
首を傾げながら彼は尋ねました。
えっと、どう説明すればいいでしょう。
苗字が違うのは当たり前です。この家は元々私のものでも両親のものでもなく、いきなり愛莉が用意してくれた家だったからです。
ですがそういった事情をうまく説明できるかわかりません。私の身の上を話す必要もありますし、せっかく遊びに来てもらった彼に重く込み入った話をするのは気が引けました。
私が答えられないでいると、愛莉が先んじました。
「池田とは私の母方の姓です」
「「え?」」
私と彼の声が重なりました。彼が驚いてこちらを見ますが、私は慌てて首を振ります。
初耳でした。
それはつまり、この家は愛莉の実家、あるいは親族所有の家ということになるのでしょうか。
「説明するのは難しいですが、一言で言いますと私の家です。ただ、元々親の持ち物だったここを名義上受け継いだだけで、ろくに使ってませんでした」
「使ってなかった、って」
「屋敷に住み込みで働いていましたので、ここを使う必要がなかったのです。今はお嬢様に使っていただけるので、持ち腐れしませんが」
最後のはやや皮肉に聞こえましたが、多分私の引け目がそうさせているのでしょう。
本来なら私がここに住む必要はありませんし、愛莉はきっと私が今の生活から脱することを望んでいます。
愛莉には本当に苦労をかけて申し訳なく思います。
でもここに来なければ彼と知り合うこともなかったと思うので、それだけはごめんなさいではなくありがとうと言いたいです。
愛莉は立ち上がると軽く目礼してその場から離れようとします。
「少し出てきます。買い物を忘れていました」
「愛莉?」
た、大変です。今出ていかれるのは非常にまずいです。二人っきりだなんて、そんな急に、
「お嬢様、頑張ってくださいね。時間は限られているのですから」
その言葉を残して愛莉は部屋から出ていきました。
彼は愛莉の出ていったドアを見て、次いで私を見ます。
そして「どうしたらいいかわからない」とでも言うような、曖昧な笑顔を浮かべました。
どうしたらいいかわからないのは私も同じです。
できることなら彼と楽しく話してみたいです。でも何をどのように話せばいいのか、うまく言葉が出てきません。
私が迷っていると彼が言いました。
「あの、さ」
「……はい」
「部屋を見せてもらってもいいかな?」
部屋?
「ずっと二階から顔を出していたよね」
私の部屋のことでしょうか。
ええと、それはもちろん構いませんけど、部屋なんて見たいのでしょうか。
しかし逆の立場なら確かに私も彼の部屋は見たいと思うので、私は納得して頷きました。
少し恥ずかしいですけど、彼なら。
「ありがとう」
彼の嬉しげな顔に私は反射的に顔を背けました。
二階の四つの部屋のうち、東側が私の部屋です。
中にあるのは机に椅子にベッド、本棚、クローゼットくらいのもので、持ち物といえば本ばかり。あまり彼の興味を惹くようなものはないと思います。
あ、ベッドの上に抱き枕があるのを忘れていました。丸っこいパンダの抱き枕です。
私は慌てて拾い上げてクローゼットに放り込みました。ごめんなさい、乱暴で。
彼は隠すことないのにと苦笑します。どうやら変に思われてはいないようです。それとも抱き枕って他の女の子もよく持ってたりするのでしょうか。
彼は窓に近付いて外の景色を眺めます。
「ここからいつも見ていたんだ。いい眺めだね」
言われても私はうまく答えられません。
だって私は、別に景色を見ていたわけじゃないから。
恐怖を抱えたまま、安全地帯から漠然と世界を見ていただけだから。
彼がいなかったら、きっとそんな行為もそのうちやめていたに違いなく、今だって世界に好意を向けられません。
でも彼は私とは違います。
閉じ籠らず、ちゃんと世界に立っています。
私はそれが羨ましいのでしょうか。
「どうしたの?」
彼の心配そうな目が私の顔を覗き込みます。
私はうつむき、首を振りました。
うまく話せません。できることといったら軽い相槌や首を動かすことばかり。
どうして私はこうなのでしょうか。本当は彼ともっと楽しく話をしたいのに。
時間がないのに。
椅子を引く音がしました。ああ、椅子くらい出すべきですよね。こういうところまで気が回りません。
「しりとり」
彼の穏やかな声が聞こえました。
私は言われたことの意味がわからず、顔を上げて彼をぼんやり見つめました。
彼は椅子に腰掛けながら、もう一度言葉を重ねます。
「しりとり、だよ。何でもいい。『り』のつく言葉」
……しりとり?
私は戸惑いながらもなんとか答えました。
「り……りんご?」
彼は嬉しそうに笑いました。
「ゴンドラ」
「ら……ラク、ダ」
「だし巻き玉子」
「……ごみ箱」
「コアラ」
しりとりは続きます。
「……ラッコ」
「昆布」
「ぶ、鰤」
「陸地」
「地図」
「ズッキーニ」
「にんにく」
「栗」
「理科」
「狩り」
「……旅行」
「瓜」
……り?
「りゅ、留学生」
「囲炉裏」
「リズム」
「無理」
な、なるほど、『り』で攻めているのですね。これはなかなか凄い作戦です。『り』で始まる言葉は他と比べて少ないと思いますし。
感心している場合ではありません。なんとかしなければ、
「り、り、理学部」
「……部室」
やりました! さっき既に鰤は出てるので彼は『り』で返せません。
本当はブロッコリーとかいろいろあるのですが、彼は気付かないようです。
もちろん教えてなんかあげません。今度はこちらが『り』で攻めさせてもらいます。
「つ、釣り」
「料理」
「…………」
この人いじわるです。
「り、り、リトマス試験紙」
「しおり」
「リンボーダンス」
「スリ」
「り……り……」
彼は楽しそうにしていますが、私は苦闘の真っ最中でなんだか憎らしいです。
「り、リケッチア」
「……何それ?」
え? わかりませんか? リケッチア。
「え、ええと、リケッチアというのはですね、細菌とウイルスの中間的な微生物で、発疹チフスとかツツガムシ病なんかの病原体のことなんですが……」
「そうなんだ。物知りだね」
「あ、その、ありがとうございます」
「じゃあ再開。アリ」
「…………」
この人本当は性格悪いんじゃないでしょうか。
「……リップスティック」
栗は出ましたよ。
「鎖」
「力学」
「薬」
「流木」
「曇り」
「流動食」
「下り」
「利息」
「……くま」
ようやく『り』を止めることができました。そちらが『り』攻めならこちらは『く』攻めです。
「祭り」
「倫理」
「…………うう〜〜」
ひどいです。ひどすぎます。
「ごめんごめん。いや、あんまり君が面白いからついね」
「嫌いです、そういう風にからかう人」
彼は笑顔で謝ってきますが、反省が見えません。まあ別にルール違反を犯したわけじゃないので、彼は悪くないのですけど。
彼は頭を上げると言いました。
「よかった、ちゃんと話せて」
「……え?」
私は目を丸くします。
「何でもいいから話したかったんだ。でもずっと緊張してるみたいだったから、どうにかそれをほぐしたくて」
「……」
確かに緊張は解けています。そして楽しかったです。
これが狙いだったのでしょうか。
「それで、しりとり?」
「他に思い付かなかった。でも悪くはなかったと思うよ」
「……ちょっといじわるでしたけどね」
半目で軽く睨むと彼はうろたえました。
「だ、だから悪かったってば」
「別にいいですよ。全然悪いことなんてありません」
精一杯意地悪く言うと、彼は困ったように身をすくませました。
私はおかしくなってくすりと笑います。
「冗談です。しりとり、楽しかったですよ」
「……本当に?」
「誰かとこんな風におしゃべりするのなんて、久しくなかったことですから」
ましてや冗談を言える友達なんて。
私はほう、と息を一つ吐きました。
「……私、中学の時にいじめに遭ってたんです」
彼は、表情を変えませんでした。
「それで人が怖くなって、進学を諦めたんです。こんな引きこもりの生活を続けていて、いつまでもこんなことじゃいけないと思ったんですけど、なかなか勇気が出なくて」
「……」
「でも、そんな時あなたに会ったんです」
私は彼の目を真っ直ぐ見つめました。
「最初は怖かったけど、あなたが嬉しそうに笑っているのを見て、興味を持ったんです。そのうちあなたのことを知りたくなって、ひょっとしたら友達になれるかもしれないって思えて」
「……」
「なかなか踏ん切りがつかなくて、結局夏休みに入っちゃいましたけどね。でも知り合えてよかったです。本当に」
ちゃんと言えました。
思いをはっきり口にできました。これもしりとりのおかげでしょうか。
「……今でも怖い?」
彼の問いに私は答えます。
「わからないです。でもこうして話せているのだから、きっと……」
あなたは怖くないと思います。
あなたのこと、好きです。
彼は安心したように破顔しました。
「もっと知りたいな、君のこと」
「はい……私も」
その日はずっと、互いのことを教え合っていました。