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 とりたくて・2


          ◇     ◇     ◇

 離れの一軒家の二階から、私は毎朝外を眺めていました。
 朝日が上り、暗い世界が光に包まれていく時間帯、家の前の道には誰の姿もなく、静謐な空気はどこまでも澄んでいます。
 手を伸ばせば簡単に触れられるこの世界。
 しかし私は触れるのをためらってしまいます。
 世界が怖いものであることを知っているから。
 私はいつも眺めるだけです。
 その日、私はいつもと同じように外を眺めていました。
 すると家の前に人影が見えました。
 私は反射的に体をすくませました。その人影と目が合い、慌てて私はカーテンを閉めます。
 人影はすぐに立ち去ってしまったようで、カーテンの隙間から窺った時には影も形もありませんでした。
 しかし私の目にその姿ははっきり焼き付いていました。同い年くらいの背の低い男の子。
 線の細い、どこか清潔感のある男の子でした。
 近くの高校の制服を着ていたので、おそらくそこに通っているのでしょう。向こうはこちらの存在に気付いたでしょうか? 一瞬のことで気付かなかったかもしれません。
(でも、もし気付いていたら?)
 ぞくり、と怖気が走りました。
 やはり、怖い。
 外は、人は、世界は、どこまでも私に恐怖しか与えません。
 そんなことあるわけがない、と理性は言います。あの男の子だってたまたま通りがかっただけで、別に悪意を抱えてこちらを見ていたわけではないと、それくらい理解はしています。
 ですが奥底に根付いた恐れは私の見る世界を一変させました。
 人は本当に恐ろしいのです。
 赤の他人が他人を傷付けることも、親しい隣人が隣人を嬲ることも、共に生きてきた肉親が肉親を殺すことも、人にはありうるのです。
 私にとって唯一安心できる相手は愛莉だけでした。
 本当に人そのものを恐れるならば愛莉さえ遠ざけたかもしれません。でも幸いなことに彼女だけは平気でした。
 随分と私は都合よく生きているようです。自分の都合だけで愛莉を例外にしているのですから。
 そんな自分が浅ましく思えました。


 次の日、私はまた窓から外を眺めていました。
 これも自分に都合のいい行いなのかもしれません。本当に世界を恐れるなら、こんなことできるわけがないのに。
 自嘲しながらも私は図々しく景色を眺めます。
 ふと下に目を向けました。
「!」
 そこには昨日と同じ男の子がいました。
 そしてはっきりとこちらに目を向けていました。
 また、目が合います。
 私はまたカーテンを閉めました。
 どうして彼が?
 いえ、家の前の道が通学路にあたるのだと理解はできます。だから家の前を通るのは不思議でもなんでもありません。
 しかし彼ははっきりこちらを見つめていました。
 それはどういうことなのでしょうか。
 私は恐る恐る隙間から下を見やります。
 少年は立ち去らずにしばらくこちらを見上げていました。
 そして、

 とても嬉しそうな笑顔を浮かべたのです。

 なぜでしょう。その笑顔に悪意は感じられませんでした。
 それどころかどこまでも純真にさえ映りました。
 私は胸が苦しくなり、部屋から出て台所に行きました。
 そして、水を飲みました。
 一杯では治まらず、二杯三杯とあおりましたが、動悸の激しさは止まりません。
 これは一体何なのでしょうか。
 恐怖ではありません。
 緊張や動揺というのは非常に近い気がしましたが、正確ではないと思います。
 では、
 では一体何なのでしょう。


 翌日も少年は家の前を通りました。
 また目が合い、私は逃げるようにカーテンを閉めました。
 その次の日も、さらに次の日も、同じことが繰り返され、私は不思議な気分でした。
 不快さはありません。むしろ少年の存在を私は心のどこかで望んでいる気がしました。
 望む。
 あんなに他者に恐怖を抱いていた私が、他者を望むなんて。
 でも確かに彼の存在は私には心地好く、毎朝の邂逅を期待している自分がいました。
 相変わらずカーテンを閉めてしまいますが、それは多分怖さから来るものではなくて、
(恥ずかしいんだわ、きっと)
 何が恥ずかしいのかまるでわかりませんが、彼と目が合うと私は真っ赤になってしまうのです。
 真っ赤になりながらもいつしか朝が楽しみになっていました。


 愛莉にそのことを言ってみると、彼女はおかしげに笑いました。
「お嬢様。それは少しも不思議なことではありませんよ」
「え?」
 愛莉は微笑みを浮かべながら言います。
「お嬢様はきっと、その方のことをよく想っておいでなのです」
「……?」
「嬉しかったのではないですか? 誰かに笑ってもらえるということが。確かなことは申し上げられませんが、お嬢様はおそらくその方の笑顔を嬉しく思われたのでしょう。誰かが笑ってくれるということは、とても安心することなのですよ」
 愛莉はどこか嬉しそうでした。
 確かに、愛莉の笑顔を見ると私は嬉しく思いますし、それはあの男の子の笑顔にも感じることだと思います。
 でも恥ずかしいのはなぜなのでしょうか。
「それは当たり前です」
「え?」
「だって、お嬢様はその子とまだ少しも触れ合っていないのですよ。知らない人に自分のプライベートを見られるというのは、ちょっと恥ずかしいじゃないですか」
「……毎日会っていても、ですか?」
「お互い名前も知らない間柄です。お嬢様は彼と一種繋がりを感じておられるのかもしれませんが、私から見れば関係というのもはばかられる、拙いものにしか見えません」
「……」
 厳しい言葉です。しかしそれはよくわかります。
 窓の向こう。目線の高さすら並ばない位置にいて、少し目が合ったくらいで互いの関係などと口にするのは、確かに滑稽です。
 繋がりは確かに感じていますが、それが一方的な勘違いではないという保証がどこにあるのでしょう。
 その時になって、ようやく私は自覚しました。
(私は、彼と知り合いたいんだ)
 そして、できることなら友達になりたい。そう思っているのです。
 それはとても素敵なことだと思いました。
 でも彼はどうなのでしょう。
 彼は私を知りたいと少しでも思っているでしょうか。



 薫風が吹き過ぎ、雨空も立ち消えて盛夏の時節を迎える頃。
 私は久々に屋敷に戻っていました。
 父と、母と、幾月ぶりに顔を合わせます。
 父が言いました。いつまでも今の生活を続けるわけにはいかない、と。
 確かにその通りです。私は重々しく頷きました。戻ってこいと父は言っているのです。
 しかし、今はだめです。私は彼とまだ知り合えていないのです。
 私は言いました。
 どうか夏の間は今の生活をお許しください。
 父は一言だけ尋ねました。
 必要なことなのか、と。
 私は頷きました。はっきり頷きました。
 父の返事は簡潔でした。
『九月になったら戻ってこい』
 私は弱気になる心を無理矢理引き起こし、叱咤します。
 期限は定められました。もう先送りにはできません。
 本当に知り合いたいと思うならば。
 やることは一つです。


 その日、私は朝早くから家の玄関先に立っていました。
 いつも通りならもうすぐここを彼が通ります。
 私は不安と恐れを内に抱えながら、しかし両足で立ちます。
 声をかけるだけでいいのです。
 勘違いでも構いません。勇気を出して、声をかけるだけで、私は少し変われるような気がしました。
 やがて、道の先に男の子の姿が見えました。
 小さな影が少しずつ近付いてきます。
 心臓が急速に締め付けられました。苦しく思いながらも、私は目を逸らしません。
 そして、ついに私たちは何も隔たずに出会いました。
 眼前の男の子は思っていたよりもずっと柔らかい印象を受けました。
 しかし、反射的に恐れが湧き起こります。
 違う。必死に私はそれを押さえ付けます。
 違うのです。この人が怖いのではありません。
 世界は確かに恐ろしいかもしれません。でも、きっと素敵なこともたくさんあります。
 愛莉は私にとって素敵な『姉』です。いつも私のことを想ってくれる素敵な理解者です。
 両親はこんな私を大事に想ってくれます。それも素敵なことに違いありません。
 他にも素敵なことはたくさんあるでしょう。
 ならば──彼が私にとって素敵な存在になることもきっとあると思います。
 私はいざ話しかけようと口を開きました。
 ところが、
「お、おはよう」
 彼の方が先に話しかけてきました。
 あ、あいさつです。朝ですから、そう、あいさつは当然の行動です。私もきちんと返さないと、
「あ……あの……お、おはようございます……」
 小声になってしまいました。
 駄目です。こんなことでは知り合うなんてとても、
「ずっと、話がしたかったんだ」
 思わず私は顔を上げました。
「だから、嬉しい。君とこうして、会えて」
 真っ直ぐな言葉に私は真っ赤になってしまいました。恥ずかしさにまたうつむいてしまいます。
 嬉しい。嬉しいです。向こうもこちらをそんな風に見てくれていたなんて。
 でも、私はうまく返せません。この嬉しさを彼に伝えるにはどうすればいいのでしょう。変なことを言って嫌われたくありません。
 ああ、どうして私はうまく言葉を操れないのでしょう。
 紡ぐ言葉はもう明らかなのです。私は、私はあなたと、

「友達になりたい」

 そう、言われました。
「友達になってほしい。明日から夏休みで、これまでみたいに朝早くは会えなくなる。それにもう、窓越しに見つめるのは嫌なんだ」
 私だって、そうです。
「もし迷惑じゃなかったら、ぼくと友達になってください」
 とても真摯な言葉でした。
 こんなに想われて、私は幸いです。
 でもその幸いなことに甘えてはならないと思います。
 だから私は、同じくらい真摯に返事をしなければいけないのです。
 たとえみっともなくても、私にできる精一杯の返事を、真っ直ぐに。

「私も、あなたと……友達になりたい、です」

 一生懸命言葉を返すと、彼はにっこり笑いました。
「じゃあ」
「はい……よろしくお願いします」
 私は深々と頭を下げました。

 それは拙いやり取りながら、私が初めて彼と触れ合った瞬間でした。

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