「すみません、少しよろしいですか?」
そう呼び止められたのは、終業式前日の夕方のことだった。
帰り道、彼女の家の前を通る際、知らない女の人がぼくの前に立ったのだ。
「は」
ぼくは自分が呼ばれたことにびっくりして、間の抜けた声を洩らした。
背の高い人だった。切れ長の眉を持った、真面目そうな大人の女性。
その人が確認してきた。
「毎朝、うちの前を通ってらっしゃいますよね」
「……へ?」
うちって。
その人が示すうちは、『彼女』の家。
ぼくはひどく慌てた。
「あ、ええと、その、はい」
「いつもあの子を見ていた方ですか?」
「……!」
心臓が止まるかと思った。
あの子って、あの子?
それ以外に心当たりはない。けどそのことを言われるのはなんだかひどく後ろめたい気がして、ぼくは黙り込んだ。
答えられないでいると、その人は続けて言った。
「すみません、お願いがあるのです」
「お願い……ですか?」
はい、と頷く。
「明日の朝、いつもと同じ時間にここに来てほしいのです。あの子が、あなたに会いたいそうです」
「……え!?」
思いがけない申し出だった。
呆然としていると、女性はさらに続ける。
「ただ、あの子はひどく臆病で、人目を極端に嫌います。唐突なお願いですし、ひょっとしたらあなたに不快な思いをさせてしまうかもしれません。それでも失礼を承知でお願いしたいのです。あの子に会っていただけませんか?」
ぼくは混乱する頭を必死で落ち着かせようとした。
ぼくに会いたいだって? 彼女が?
毎日眺めることしかできなかったぼくにとって、それはあまりに急な事態だった。
でも、
「明日の朝じゃないといけないんですか?」
会うなら時間のない早朝よりもっと落ち着いた時間の方がよさそうな気がする。そう訊ねると女性は首を振った。
「私があなたにこうしてお願いしていることを、あの子は知りません。あの子には秘密でやっていることなのです」
女性はほう、と息をついた。
「あの子はあなたに会いたいと思っています。でもずっと躊躇していて、なかなか踏ん切りがつかなくて、今日まで来てしまいました。明日は終業式ですよね。夏休みになるとしばらくあなたを見ることは叶いません。その前になんとかあなたと知り合いたいと、ようやくあの子は決心したのです。明日、あなたに直接会うと。でももし、もしあなたがいつもの時間に現れなかったら──せっかくの決心が、勇気が、萎み、消えてしまうかもしれない。そんなこと、あってほしくありません。だから──」
ぼくは静かに聞いていた。
話を聞くに、『彼女』はひどく人見知りする性質のようだ。ぼくも結構迷う方だけど彼女はどうも段違いのような気がする。
そんな彼女がぼくに対して勇気を振り絞ってくれるというのは、すごく嬉しかった。
「わかりました。じゃあ、明日の朝に」
「お願いします。あと、このことは一応秘密に」
「はい。……あ、そうだ。彼女の名前を教えてくれませんか?」
すると女性は一瞬目を見開き、それから小さく笑みを浮かべた。
「あの子はあなたの名前も知りません。なのにあなたの方は知っているというのは不公平じゃないですか?」
「いや、それは……」
「あの子に直接訊いてください。私が教えるのも野暮というものです」
それでは、と女性は頭を下げると、門の向こうに消えていった。
「……」
ぼくはしばらく『彼女』の部屋の窓を見つめていた。
そこに彼女がいるのか、窺い知ることはできなかった。
眠れない夜を過ごし、ぼくは朝を迎えた。
いつもと同じようにと気を付けてはいたけど、いつもより早く準備ができてしまった。
やっぱり気がはやっているのだろう。ぼくは眠気覚ましのコーヒーをもう一杯だけ飲んで、家を出た。
外の空気はとても澄んでいた。今日も暑くなる予感をさせる青い空には雲一つなくて、早い時間帯の通学路に人影はなく喧騒とは程遠くて、建物の隙間をついて射してくる朝日の光は美しく真っ白だった。
夢のように優しい、一人の世界。
そんなことを思いながら、ぼくはやがていつもの場所に着いた。
住宅地の一角。高そうな一戸建てが並ぶ中、道の正面に立つ塀に囲まれた白い家。
雪のように白い壁をぼんやり見つめていると、ふと門の前に人影があることに気付いた。
息を呑んだ。
ぼくがこうして早い時間に家を出るのは、いつもわけがあった。
でも今日は、いつもよりずっと特別で、昨日頼まれたことに驚きながらもそれはぼくにとって願ってもないことで。
2.0の視力ははっきりその姿を捉えていて、一歩一歩確実に、ぼくは近付いていく。
そしてぼくは、ついに彼女の前に立った。
窓ガラス越しではない、二階の部屋向こうでもない、ちゃんと目の前に彼女がいる。
初めて目の前に現れた彼女は、ぼくが考えていた以上にずっと綺麗な姿だった。
黒髪は鏡のように光っていて、肌は朝日に負けないくらい白くて、ワンピース姿の彼女はまるで天使のようだった。
こんな恥ずかしい表現が頭に浮かんでしまうくらい彼女は綺麗で、ぼくは呼吸を忘れる程見とれた。
ぼくの姿を見て、彼女の顔が明るくなった。
でもそれは一瞬で、すぐにうつむいてしまった。
昨日の女性の言葉を思い出す。彼女は人目を嫌い、ひどく人見知りするという。
ぼくは慎重に言葉を選んだ。
「お、おはよう」
「……」
いきなり失敗したような気がする。
ぼくは焦る。何か言わなきゃ。でも一体何を、
「あ……あの……お、おはようございます……」
初めて彼女が口を開いた。
それはソプラノの心地好い声質で、耳に染み込むようにぼくの中に届いた。
胸が高鳴る。
ずっと聞きたかった声が、ぼくの心を掴んで離さない。
もっと彼女の声を聞きたい。さっきまで焦って仕方がなかった心はもう落ち着いていて、口が自然と開いた。
「ずっと、話がしたかったんだ」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「だから、嬉しい。君とこうして、会えて」
彼女は顔を真っ赤にして、再びうつむいてしまう。
何か言いたげに顔を何度か上げようとして、しかし何も言えずにまた顔を伏せて、そんな彼女は見た目にもはっきりと不安でいっぱいだった。
ああ、とぼくは納得した。
ぼくは彼女のことを何も知らない。でも、その態度が何を表しているのかはわかる気がした。
怖いのだ。
多分……嫌われたり気分を損ねてしまうのが。
ぼくは嫌わない。
嫌うわけがない。こんなに膨れ上がった気持ちがあるのだ。
君の前にこうして立って、君を見つめていられることがぼくにとってどんなに幸せか、君は知らないんだ。
怖がらないでほしい。ぼくは君と──
「友達になりたい」
彼女は呆然とぼくを見つめた。
「友達になってほしい。明日から夏休みで、これまでみたいに朝早くは会えなくなる。それにもう、窓越しに見つめるのは嫌なんだ」
君の声を聞いたから。
「もし迷惑じゃなかったら、ぼくと友達になってください」
真摯に、素直な気持ちをぶつけた。
彼女は喉が詰まったようにしばらく何も言わなかった。
けど、やがてぎゅっと目をつぶると、何かを飲み込むように深く頷き、それから目を開けて絞り出すように言った。
「私も、あなたと……友達になりたい、です」
ぼくはそれを聞いてにっこり笑った。
「じゃあ」
「はい……よろしくお願いします」
彼女は深々とお辞儀をする。
できることならこのまま彼女と話をしていたい。でも今日は終業式で、今から学校で、ぼくは恨めしく思った。
まあでも、仕方がない。今日は朝からあまりに幸運すぎた。これ以上を望むのは贅沢と言えるかもしれない。
だからぼくは一つだけ訊いた。
「じゃあ自己紹介しようか。まだ名前も知らないし、君の名前を知りたい」
彼女は小さく頷く。
「私も……あなたの名前を知りたいです」
そしてぼくらは互いの名を名のった。
「ぼくは──」
「私は──」