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なりたくて・3


          ◇     ◇     ◇

 アイスも食べ終えて、しばらく他愛の無い話をしていると、突然彼女が何かに気づいたようにはっとなった。
 ポケットから携帯を取り出すと、こちらに軽く目礼した。立ち上がって部屋を出て行く。ドアを閉めると、その向こうから話し声が聞こえてきた。
 しばらく待っていると、彼女が戻ってきた。
「何かあった?」
 すると彼女は言いよどんだ。
「えと、あの……」
「どうしたの?」
「愛莉からでした」
 彼女の家にはお手伝いさんが一人いる。昔から彼女の身の回りの世話をしているという愛莉さんだ。親元から離れて生活をしている彼女の、いわば保護者に当たる。親というより姉のような存在で、たぶん彼女はぼく以上に、愛莉さんには気を許している。それがちょっとくやしかったり。
「愛莉さん、なんて?」
「……急用ができて、出かけるそうです。今夜は帰らないって」
「じゃあ、今日は一人?」
「そう、なりそうですね……」
 彼女はさびしそうに答えた。
 そのあとの提案が、果たして『チャンスだ』と思ったから出たのか、それとも彼女のその表情を和らげたくて出たのか、ぼくには判別がつかなかった。ひょっとしたら両方かもしれない。
 ただそのときはとにかく、彼女を引き止めたくて仕方がなかった。
「……泊まっていく?」
 まとまらない思考のまま、ぼくは彼女にそんなことを言っていた。言ってしまっていた。
 綺麗な顔が、寂しげなものから驚きのものに変化する。
「え?」
 意外そうに聞き返されて、ぼくは即座に後悔した。何を言ってるんだろう。いきなりそんな提案、ありえない。
「あ、いやその、うちはいつも両親が遅いんだけど、でもえっと別にちゃんと帰ってくるし変な意味は全然なくてその、」
「……迷惑じゃありませんか?」
 彼女の声に、不思議と拒絶の響きはまったくなかった。
 ぼくは一瞬戸惑って、しかしすぐに答えた。
 下心かもしれないけど、でも。
「全然! そんなことまったくないから!」
「でも、あまりに急ですし……」
「うちの親にはちゃんと説明する。それに、家に一人きりなんて危ないよ」
「……はしたなくありませんか?」
 彼女は恥じ入るように顔を伏せた。
「いくらお付き合いをしていても、男性の方のお宅に泊まるというのは、その……やっぱり褒められたことじゃありませんよね」
「……」
 それはその通りで、でも、
「つまり、駄目ってこと?」
「……いいえ」
 彼女は消え入りそうな声で答えた。
「ご迷惑じゃなければ、その、私は……」
「……いいの?」
「でも、やっぱりいけないことかもしれないと、そんな思いも、その、あります」
 ぼくは少しだけ、じれったく思った。
 彼女がぼくと一緒にいたいと思ってくれていることは、痛いほど伝わる。しかし一方で、節度ある付き合いが大事だという思いもあって、彼女は迷っている。
 彼女らしいその迷いを好ましく思いながらも、同時にぼくは煩わしさを覚えている。
 今すぐ彼女を自分のものにしてしまいたい。
 心も、体も、すべてをぼくのものにしたい。
 そんな支配欲が、ヘドロのように奥底にあって。
 ぼくは決して聖人じゃない。彼女はひょっとしたら、ぼくを綺麗なものとして見ているのかもしれないけど、でもそれはぼくがそう見せているだけだ。
 汚い部分は、隠している。彼女にだけは見られたくない。
 失望させたくない。そして、嫌われたくない。
「……あの」
 考えをまとめたのか、おずおずと彼女が口を開いた。
「着替えを、取ってきますね」
「……え?」
 ぼくは彼女のぎこちない笑顔をぼんやり見やった。
「必要ですから」
「……じゃあ」
「はい。お世話になります。それと」
 彼女はぼくの隣に腰を下ろすと、そっと身を寄せてきた。
 肩が触れ合うくらい、近く。
 彼女の温もりと匂いを感じて、ぼくはどきりとする。
「な、なに?」
「責任、取ってくれますか?」
 微笑みがぼくの心を揺さぶる。
「好きです。言葉じゃ表せないくらい、あなたのことが好きです。そうさせたのはあなたです」
 言葉が、
「このあいだ、言ってましたよね。『もっと惚れさせないといけない』って。もう十分です。これ以上好きになれないくらい好きです」
 想いが、
「あなたのこと、もう嫌いになれないくらい好きなんです。だから、もう少し私にぶつけていいんですよ? したいことを、もっと見せてください。きっと受け止めてみせますから」
 決意が、ぼくの稚拙な仮面を壊す。
 かっこつけてるだけのぼくに、彼女は笑って寄り添ってくれる。
「私を惚れさせた責任、ちゃんと取ってくださいね」
 頬を赤く染めながら、彼女は少しだけいたずらっぽく。
 本当に変わった。
 もう君は、世界に対して怯えていない。目を逸らさないで、物事を見据えることができる。
 一年前、初めて言葉を交わした時と比べたら、すっかり見違えた。
 そんな君をぼくは凄いと思うし、尊敬している。君はぼくのおかげだと言うけど、間違いなく君自身の努力の賜物だ。
 そんな君に想われていることが、誇らしい。
 縁日の夜に、君の真摯な想いを聞いて、ぼくは嬉しかった。そして、その想いに負けないように、ぼくも頑張らないといけない。
 君と一緒にこれからを歩みたい。
 責任、取らせてくれる?
「言っておくけど、遠慮したわけじゃないからね」
「……違うんですか?」
「ぼくも男だからさ、いろいろ、その……欲情するんだ」
 彼女の顔が真っ赤になった。
「そういうのを見られたり知られたりすると、ちょっと恥ずかしい。だから遠慮というよりは、かっこつけてるだけなんだ。初めて付き合った女の子には、特に」
「……え、えっと……わ、私、平気ですよ?」
 声が上ずっている。明らかに動揺している。
 その様子がおかしくて、ぼくの顔は緩んでしまう。
「笑わないでくださいよ」
「ぶつけていい?」
 ぼくはすぐ隣にある彼女の顔に、急接近した。
 彼女の表情が固まる。
 間近で見ると、本当に綺麗な作りをしている。絵画のように繊細に整っていて、ため息が洩れそうだ。
 高鳴る胸を苦しく思いながら、ぼくは彼女を抱きしめた。
「いつだって、こうしたいんだ」
 細く柔らかい彼女の体は、服の上からでも温かく、触れ合うだけで心地良い気分になる。
 突然の抱擁に、彼女は固まったまま動かない。
 ぼくの方は幾分落ち着いている。
 この間も同じようなことをしたけど、あのときよりはもう少し冷静だ。
 あのときは彼女の奥にある不安をとにかく取り除きたくて無我夢中だった。
「平気?」
「……はい」
 その声には緊張が窺えたけど、でも恐れはなさそうだった。
「ちょっと、恥ずかしいですけど」
「うん」
 手のひらが背中に触れると、彼女の鼓動が微かに伝わってくる。
 耳元で呼吸の音がして、それも心地良い。
 このまま押し倒してしまいたいくらい、欲する気持ちが強くなる。
「あの、着替えを……」
 わかっている。今はまだ抑えないと。
 名残惜しくも離れると、彼女はぼくの顔を見て苦笑した。
「そんなに残念そうな顔をしなくても」
 慌てて表情を引き締めた。どんな顔をしていたのだろう。自覚はなかった。
「それじゃ、一旦家に戻りますね」
「……うん」
 勉強道具をまとめてバッグに入れると、彼女は玄関先でぺこりと頭を下げ、ぼくの家を後にした。
 その後ろ姿を見ていたら不安になってきた。本当に戻ってくるだろうか。やっぱり二人きりはよくないと、心変わりしないだろうか。
 彼女がぼくに嘘をついたことなんて一度もないのだけど、でも、
 どうかお願いします。ちゃんと戻ってきてください。
 彼女がいなくなった道の先を見つめながら、ぼくは必死に祈っていた。

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