BACK INDEX NEXT

なりたくて・2


          ◇     ◇     ◇

 彼の背中を見送って一人になると、私はほう、と息をつきました。
 足の痛みはもうほとんど無いのですけど、少しだけうずいたような気がしました。たぶん緊張しているせいだと思います。
 そう、私は今、緊張しています。
 初めて、男の子の部屋に入りました。
 とても片付いてすっきりしています。机の上から本棚、床の隅々に至るまで、とても綺麗にされています。
 普段からそうなのか、それとも昨日の夜、電話で約束をしてから大急ぎで掃除をしたのかはわかりません。彼は真面目な性格なので、そこまでずぼらだとは思いませんけど。
 あの縁日の夜から、十日が経ちました。
 怪我は本当にたいしたことはありませんでした。一応病院にも行きましたが、骨にも異常はなく、包帯で固定する必要もありませんでした。用心のために松葉杖もレンタルしましたが、一週間で不要になりました。いただいた湿布薬だけ、右足の付け根に貼っています。
 あれはひょっとしたら、神様が私の願いを聞き入れてくれたのかもしれません。
 ずっとそうなればと思っていました。
 彼の本当の彼女になりたいと、思っていました。
 私は彼が好きです。それはもう確かな想いとして私の中に満ち満ちています。しかし私は、彼の想いに十分応え切れていない気がしていました。
 彼だって、男の子ですから。
 あの人は優しい人です。私は大事にされていると思います。もちろん嬉しいことですけど、しかし彼に悪いとも思っていました。
 彼がときおり私に熱っぽい視線を向けてくることがありました。きっとそれは、私を、その、「そういう対象」として、見ていたのだと思います。
 当たり前です。だって、彼女なんですから。求められて当然です。でも彼はそういうことを言い出しませんでした。私の性格を慮ったのでしょう。私の潜在的な恐れが彼に伝わってしまってそうさせたのだとしたら、申し訳ないことです。
 でも私はその視線を、意識しないようにしていました。
 気づいていながら、彼の気遣いに甘えていました。過去を知られるのが怖くて、関係を深めることを躊躇して、結果そのことを考えないようにしていたのです。
 時間が経てばそのうち関係も深まると、たかをくくっていました。でもそんなわけありません。いつだって人は動かないと、何かを生み出せないのです。
 彼と今こうして一緒にいられるのも、私なりに動いた結果です。それを忘れてはいけません。
 荒療治でも、この怪我があってよかったと思います。



 ふと気になって、私はベッドの下を覗き込みました。
 何もありませんでした。こういうところに隠したりはしないものなのでしょうか。
 一度気になりだすと、好奇心というものはどんどん膨れ上がっていきます。改めて部屋を見回すと、どこもかしこも怪しく映ります。机の引き出し、クローゼットの中、本棚の裏側に果ては床下まで。どこかに隠しているのではないかと疑ってしまいます。何を疑っているかはお察しください。
 もちろん人様の部屋ですから、不躾なことはできません。プライバシーの侵害です。ひょっとしたらこの部屋にはなくて、別の部屋に移動させているのかもしれませんし。いえ、そうじゃなくて、詮索はいけません。彼も男の子ですから、そういう類の物の一つや二つ。いえ、ですからそうじゃなくて、そう、忘れましょう。そういうことを考えてはいけません。第一はしたないではありませんか。
 それに、ひょっとしたら彼はそういうものを持っていないかもしれません。可能性としては、決してないとは言い切れないのではないでしょうか。何といっても彼は優しく、見た目も清潔感があって、そういうことをする人には見えません。優しいのは関係ない気もしますが、とにかく。
「お待たせ」
 急にドアが開いて、彼が戻ってきました。右手に二つのカップアイス、左手にスプーンを二本持っています。私は水に打たれたように敏感に反応しました。顔を反射的に上げて、彼の顔を見つめたきり、硬直してしまいます。
「どうしたの?」
「い、いえ、なんでみょ、なんでもありません!」
 噛んでしまいました。慌てすぎです。挙動不審です。
 彼はものすごく訝しげな目を向けてきました。
「……えっと、バニラだよね?」
「……はい」
 私は真っ赤になりながら、アイスを受け取りました。
 この火照った頭を冷やしたい。そんなことを思いながら、バニラアイスを食べます。冷たい甘さが口の中に広がり、少しクールダウンできました。
 彼はチョコアイスを手にしています。そちらもおいしそうです。
「あの」
「ん?」
「この後どうしましょうか」
 宿題は終わらせました。今日の勉強はもう十分でしょう。しかし特に予定を聞いていないので、私は尋ねました。
「DVDでも観る? それともゲームかな」
 どちらかというとゲームの方が好きです。DVDだと見入ってしまって、会話が途切れてしまいがちになりますので(ゲームも、ジャンルによりますが)。
 ただ、今はそれより。
「お話しませんか?」
「……何の話?」
「なんでもいいと思いますよ。そうですね、お借りした本の話とか」
 お話をするのは好きです。私はあまりおしゃべりな方ではありませんが、彼と一緒の時は比較的饒舌になります。
 彼とお話をするのが大好きです。ゲームやDVDよりずっと。
 彼もそうであってほしいのですが。
「えーと、いろいろ貸したと思ったけど、どれか読んだ?」
「『李歐』を」
「ああ。おもしろかった?」
「ちょっといやな感じがしました」
 私は正直に答えました。彼のうろたえる顔がちょっとおもしろいです。
「……つまらなかったかな」
「いえ、内容はおもしろかったですよ。ただ、その、ちょっと」
 ハードボイルドは、私には合わないようです。登場人物はかっこよかったのですけど。
「……女の子に薦める話じゃなかったかもね」
「それに、ちょっとエッチな場面もありましたし」
 彼の顔が引きつりました。あまりいじめるのもかわいそうなので、少し手控えましょう。自分で言い出しておきながら、私は話題を逸らしました。いえ、断じて気まずいからとか恥ずかしいからとか、そういう理由ではなくてですね。
「ところで、私が貸した本はどうでした?」
「ええと……ああ、おもしろかったよ。『ビスコを食べればよいのです!』に笑っちゃった」
「素敵なヒロインですよね」
「憧れとか?」
「あんなにかわいくないですよ」
 彼はそんなことないけどと首を傾げました。そんなことあります。ああいうキャラは現実にいたら、失礼ながらアホの子扱いされると思います。お話の中だから、あんなにも輝くのです。
 大学生なので、今の私より年上なんですけど。
「同じ作家の本なら『太陽の塔』もおすすめですよ」
「……岡本太郎?」
 タイトルからはとても想像できない内容だと思います。概要は伏せておきました。
 彼も私も読書が大好きです。彼はサスペンスやミステリー、ハードボイルドを好むようですが、私はどちらかというとやさしい話が好きです。人が殺される話は、ちょっと。
「昔の本も読んでみたいけど、読んだことある?」
「夏目漱石とかですか? 読みやすいと思いますよ」
「芥川なら読んだことある」
 教科書に出てきますしね。
「ぼくは海外作品を読んでみたいんだ」
「? ヘミングウェイとかですか?」
「いや、クリスティ」
 やっぱり彼はミステリーが好きなようです。
「あとドイルとか、ポーも」
「私は殺人ものは苦手です」
「じゃあ少年探偵団とかどうかな?」
「国内じゃないですか」
 時代にこだわらず、好きなものを読むのが一番だと思いますが。
 ちなみに少年探偵団は既読です。二十面相はどうして後になって殺人をも辞さない凶悪犯になったのでしょうか。殺人を好まないという設定が好きなんですけど。
「ハッピーエンドが好きなの?」
 彼が尋ねてきます。私は頷きました。
「昔はそこまで考えてなかったんですけど、ここ二年くらいは、そうですね、選んでます」
 すると彼は微かに目を細め、気遣わしげに言いました。
「ごめん、あまり考えて渡してなかった」
「え?」
 私はその意味がわからず、訊き返しました。
「貸した本だよ。もっと内容を考えるべきだった」
「いえ、でもそれは」
「君の過去を知っていながら、配慮が足りなかった。ごめん」
 彼はそう言って頭を垂れました。
 私はその姿を見て、申し訳ないと思いました。しかしそれは僅かなことで、それよりも腹立たしい気持ちになりました。
 彼の態度は、よくありません。
「何でも謝らないでください」
 強い調子で言うと、彼はきょとんとした様子で顔を上げました。
「あなたが私を心配してくれるのは嬉しいです。でもたかが本の貸し借りくらいで謝ることはありませんよ」
「……それは」
「趣味嗜好が変わるなんてよくあることじゃないですか。先日の件があったから、過敏に反応するのもわかりますけど、あれからもう少し強くなりましたよ、私」
「……」
「心配してくれてありがとうございます。でも、過剰はいけません。はっきり言っておきます」
「……ずけずけ言うね」
 彼は苦笑を浮かべて頬を掻きました。
「はい、彼女ですから」
「うん。ぼくも遠慮なく言わないと駄目だね。彼氏なんだから」
 私たちは顔を見合わせて、くすくす笑いました。
 穏やかに。和やかに。
 六畳間の部屋で二人して過ごす時間は、とても優しく温かいものでした。真夏の熱気を和らげるくらいに、平和なひと時でした。
 少しばかり溶けたアイスは、ほんのり幸せな味がしました。

BACK INDEX NEXT