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いいたくて・1


 走る。
 私はさっき初めて通った道をひたすら駆け下りていました。
 祭りの喧騒が冷めないまま、明るさを残している神社へと、履き慣れない下駄を懸命に動かして戻ります。
 途中で転びそうになるのをなんとかこらえて境内に辿り着くと、私はようやく足を止めました。
 視界がぼやけています。
 先程の涙が原因です。彼とキスを……キスをして、直後に胸が苦しくなって、その苦しさを吐き出すように私は泣いてしまったのです。
 こらえようとしても止まらなくて、その顔を彼に見せたくなかった私は、思わず逃げてしまいました。
 嬉しかったのに。
 彼の本当の『彼女』になれた気がして、嬉しかったのに。
 目を擦って痕を拭います。
 戻ろうかな、と一瞬だけ考えました。
 しかしすぐにその考えは自分の中で棄却されます。
 怖い。
 彼と付き合い始めてからはおよそ起こらなかった思いが、どうしようもなく生まれるのを自覚しました。
 私は彼の彼女にふさわしいのでしょうか。
 こんな私でいいのでしょうか。
 彼の手を取りたいとずっと思っていたのに、想ってきたのに、今は、
 ……境内の明かりが私を照らしています。
 私はそれをうっとうしく感じ、そこから離れようとしました。うつむきながら鳥居の方へと足を向け、
 名前を呼ばれました。
 少し離れたところから、しかしはっきりとした声が届き、私は反射的に背後を振り返ろうとしました。
 それが思いとどまったのは、相手がすぐにわかったからです。私はその人に会いたくなくて、そのまま再び駆け出しました。
「待って!」
 強い声が後ろから届きます。私が好きな、とても好きなその声は、逃げる私の心を嬉しくも悲しくも乱すようで、胸が締め付けられます。
 彼が追いかけてくる。
 こんな私を追いかけてきてくれる。
 少なくなった人々の間を通り抜けて、急な石段を駆け下ります。両脇に設置された灯籠のおかげで足下は見えますが、それでも下駄がネックになって速度は落ちます。
 早く、早く、
 追い付かれたらきっと彼は私に訊ねるでしょう。逃げた理由と涙のわけを。
 うまく説明できる気がしません。この恐れを、申し訳なさを、どう伝えたらいいのでしょう。
 そうです。私は彼に申し訳なく思っているのです。それを伝えなければならないということはわかっています。ですがその理由と向き合うのは容易なことではなく。
 石段の終わりが見えました。その先には道路が夜闇へとまっすぐ伸びていて、私はスピードを上げようと足に力を入れました。
 あと五段、四段、三段、それから一足飛びに、下へ、



 あ



 後ろから、悲鳴にも似た彼の声が聞こえた気がしました。
 着地した瞬間でした。想定していたものとは違う感触が右足に走り、バランスが崩れました。
 それを立て直すことはできず、私の体は大きく傾き、固いアスファルトの上に倒れ込みました。
「っ……!」
 反射的に手をついたので、体を強く打ち付けることはありませんでした。しかし右足に走った衝撃は、無視できないものでした。
 脂汗が身体中から吹き出したように流れます。私は息を殺して痛みに耐えました。
 足下を見ると、親指の倍くらいの大きさの石が転がっていました。たぶん、下駄の歯で踏んでしまったのでしょう。挫いたのか、足首が焼けるように痛みます。
「……」
 傍らに人の立つ気配を感じました。
 顔を上げると、彼が私を見つめていました。ひどく深刻な表情でその場にしゃがみこむと、私の足の様子を確認しました。
「……かなり腫れてる。帰りは車を呼んだ方がいいね」
「……」
 私はうまく答えられませんでした。
 彼は携帯を取り出してどこかに電話をかけました。おそらく愛莉に連絡をしているのでしょう。私はその様子をぼんやり眺めていました。
 何をやっているんでしょう、私。
 急に取り乱して、逃げ出して、こんな迷惑までかけて。
 自分の馬鹿さ加減に心底呆れます。
 足の痛みは引きません。最初に感じた衝撃ほど強くはありませんが、じくじくと鈍い痛みが晴れずに続いています。
 私はうつむき、小さくため息をつきました。直後、ばつが悪くなりました。ため息をつきたいのはきっと彼の方だろうに。
「立てる?」
 電話を終えた彼がそう訊ねてきました。その声はいつもの優しい響きを持っていて、心地好く聞こえました。
 私はまた答えられませんでした。彼があまりにいつもの、優しい彼だったから。
「ここだとまだ人も通るし、ちょっと落ち着けないから、少し移動するよ」
 そう言うと、彼はしゃがんだままちょこちょこと足を動かして、私に背を向けました。
「……?」
 咄嗟に反応できないでいると、彼が言いました。
「近くのバス停にベンチがあるから、そこまでおんぶするよ。痛めた足をぶつけないように気を付けて」
 彼の声は相変わらず優しいままです。
 申し訳なくて、しかし何を言っても今は意味がないと思ったので、私は彼の言う通りにしました。
 無事な左足をうまく使って、彼の背中に覆い被さるようにしがみつきます。
 お借りします、と小さく囁くと、彼は頷いてゆっくりと立ち上がりました。

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