◇ ◇ ◇
バス停のベンチに腰掛けながら、私は彼を待っていました。
しばらくすると、彼が戻ってきました。両手にジュースを一本ずつ持っています。紅茶とオレンジです。
差し出されたスチール缶を受け取ります。ありがとうございます、と素直な言葉を返せたことに、少しだけほっとしました。
二人並んでベンチに座り、しばらく無言でジュースを飲みました。
夜のバス停は静かで、私の心とは違い、穏やかでした。夏特有の熱を帯びた夜気は、しかし今はそれほど苦ではなく、どこか心地好くさえありました。
常夜灯が私たちを照らしています。
帰途に着く人々が何人か通りすぎていきます。目立つのか、少しばかり訝しげな視線を向けられました。
ストレートティーをちびちび飲みます。口をつけたものの通りは悪く、それでもせっかく彼が買ってきてくれたものだからと、少し無理をして飲み続けました。
無言の時間が続きます。
何か言わなければ、と私は言葉を探しました。
まずは謝らなくてはいけません。急に逃げ出してしまってごめんなさい。それはきちんと言わなくてはと思いました。
しかし、その言葉はなかなか外に出ていきませんでした。
それを言ってしまうと、なぜ逃げたのかを説明しなければなりません。
言わないと、とは思います。ですが私にとってそれはあやふやなもので、はっきり説明できることではありません。そしてあやふやだからこそ私は怖くなり、逃げたのです。
先延ばしにするようにいつまでも紅茶に口をつけて、でも喉の通りはまるでよくならなくて。
意気地なく何もできないでいると、彼が先に口を開きました。
「さっきはごめん」
私は思わず彼の顔を見ました。
「いきなりあんなことして、ごめん。怖がらせちゃったよね」
そう言って彼も私の顔を見ました。
「反省してる。もう二度と、君の嫌がるような真似はしない」
その言葉は真剣な、と言って差し支えないものでした。私への真摯な思いが明確に伝わってきて、率直に、嬉しく思いました。
しかし、同時にそれはひどくピントのずれた話に聞こえました。私は別に、彼を恐れたわけではなかったからです。
私は顔を伏せ、まだ半分以上中身の入った缶を、強く握りしめました。体の強張りが右足に響きました。
その痛みに後押しをされるように、私はようやく口を開きました。
「……別に、嫌ではありません」
彼は怪訝そうに目を細めました。
「いいえ、むしろ嬉しかったです。あなたとそういうことができるというのは、素敵なことだと思いますから」
彼はますます困惑しています。勘違いされるのも無理はないですが。
「私は、あなたが怖かったんじゃないです。あなたとああいうことをした私自身が怖かったんです」
「……どういうこと?」
ぐっと、奥歯を噛みしめました。
「……あなたとは関係のないところで、あなたを嫌ってしまうかもしれないことが……怖いんです」
「私……前に、男の人に襲われたことがあるんです」
「──」
「あ、いえ、愛莉が助けてくれたので、大事はなかったのですが……私、その時のこと、はっきりとは憶えていないんです」
「……」
「気付いたらベッドの上で、何もなかったと愛莉に言われたんですけど……でも、完全に何もなかったとは……言い切れません」
「……」
「最後までは、されてないと思います。でも服は、剥がされましたし、それ以上も……あった……かも、しれません……」
「…………」
「……起きたことは仕方ないんです。問題は、そのことであなたを拒絶してしまうかもしれないことなんです」
「……」
「私は、あなたが好きです。それは間違いありません。でも、あなたと今以上に関係を深めていって、その時にあなたを受け入れられるか、あなたを嫌わないでいられるか……自信、ありません」
「……」
「さっきだって、泣くつもりなんか少しもなかったのに……嫌なんです。せっかくあなたを好きになったのに、それが変わってしまうのが……怖い……」
「……」
「怖い……怖いです…………こんなに好きなのに、どうしてあの時泣いてしまったんでしょう……わからない、どうして……?」
「……」
「私、自分がわからない……嬉しいはずなのに……ずっと一緒にいたいって願ったのに、こんなことで嫌いになりたくない……あの人たちとあなたは、全然違うのに…………」
不意に私の体を、衝撃が襲いました。
彼に抱き締められたのです。
腕ごと巻き込むように体を引き寄せられて、私はあっという間に彼の腕の中にいました。浴衣の前立てが重なるように、お互いの胸が触れ合って、彼の腕に力が入るにつれて、その触れ合いはより強く感じられました。
姿勢を崩したせいか、右足が地面に擦れて痛みを覚えました。しかし間近に感じる彼の息遣いが、いとも簡単にそれを吹き飛ばします。
優しい衝撃でした。
「ありがとう」
耳元で囁かれます。
「そんなに真剣に想ってくれてるなんて思わなかった。すごく、嬉しい」
「……」
「事情を話してくれて嬉しい。言いたくないだろうことまで言ってくれて嬉しい。ぼくを特別に思ってくれて、すごく嬉しい」
「……」
「だから、ぼくも頑張らなくちゃいけないんだ」
「……え?」
それはどういう意味でしょうか。
「君がぼくのことを嫌いになるかもしれないのなら、ぼくはそうならないようにしなきゃならない」
「……?」
「いや、その……」
彼は少し躊躇しましたが、やがて小さな声で言いました。
「もっと、君を惚れさせなきゃいけないんだと思う」
「……」
思わず彼を食い入るように見つめてしまいました。
「あー、その……それって結構大事なことなんじゃないかな、と」
彼は照れくさそうに、しかし存外真面目な口調で言いました。
「つまり、その、君が不安になっても、怖くなっても、それでも好きでいてもらえるように、ぼくの方も頑張る必要があるし、そのためにはただ仲が良いだけじゃ駄目で、いろいろぶつかったり触れ合ったり、たくさんのことを積み重ねていかなくちゃいけないんじゃないか、って思うんだ」
「……」
「そういう意味ではさっきの涙もけっしてマイナスなだけじゃないと思う。考えてみたら、ぼくたちまともにケンカしたこともないし、お互い知らないこともまだまだたくさんあって、積み重ねが足りないんだよ、きっと。ただ好きになるだけじゃ駄目で、それを深めていかなきゃいけないんだ。いろいろな方向にさ」
「……」
その言葉は私の心に深く深く浸透していきました。
確かに彼とぶつかり合ったことはこれまで一度もなく、今回が初めての衝突でした。
思えば私は、ただ彼を好きだと思い続けるだけで、恋人同士になってからは具体的なことは何もしてこなかったのではないでしょうか。
でも親しい間柄なら、そんな遠慮はもっと小さくてもいいはずなのです。
「……」
私は飲みかけの紅茶をゆっくり置くと、彼の背に手を回しました。
彼の体が微かに強張るのを感じ取りました。
「いっぱい、惚れさせてくださいね……」
私は、強く抱き締め返しました。心臓の音が先刻よりもはっきり聞こえ、胸が震えます。
その鼓動を通して、少しでも想いが届くように。
それからの動きは本当に自然なものでした。
私は気分がひどく高揚していて、でもどこか冷静な気持ちもあって、落ち着いた様子で彼と向き合えました。
互いを優しく抱き締めながら視線を送り合って、
そっと、二度目のキスを交わしました。
最初のキスほどの驚きはありませんでしたが、代わりに胸が温かくなりました。
不思議な安心感でした。
唇を離して、彼をじっと見つめます。
涙はなく、今度はきちんと微笑むことができました。
そのあと、迎えに来た愛莉の車で彼を家まで送りました。
別れ際、これだけは言いたくて、車から降りた彼を呼び止めました。
「私も、もっと……あなたを虜にしないといけませんね」
いつまでも、あなたと一緒にいたいから。
振り向いた彼の顔が外灯の下で真っ赤になるのを見て、私は小さく笑いました。