◇ ◇ ◇
ホワイトデーだからといって、変わったことは特になかった。
風見と一緒に登校し、教室前で別れてそれぞれのクラスに行く。
いつもと変わらず授業を受け、一日を過ごした。
ただ、少しだけ変わったことがあった。
バレンタインデーのお返しをクラスのみんなにもらったのだ。
小さなチョコレートケーキをクラスメイト達から渡されて、紗枝は心底驚いた。
これまでにもお返しをもらうことはあったが、クラス全体からもらうのは初めてだった。
それは自分が作ったケーキよりも遥かに小さかったが、紗枝は最高に嬉しかった。
「……」
これから自分も『お返し』をする。
そのことを思うと、胸が高鳴って倒れてしまいそうだった。
「紗枝せんぱーい」
放課後の校門で、背後から明るい声が聞こえた。
振り返ると、後輩の折本糸乃が小走りに駆け寄って来ていた。ヘアピンで綺麗にまとめた短い髪がふわりと踊る。
「私も一緒に帰っていいですか?」
頷くと、糸乃はにっこり笑って隣に並んだ。
糸乃と知り合ったのは三年前だ。古武道場に入門してきた糸乃に、色々と教えてやったのがきっかけだった。
おしゃべりで感情を素直に出す糸乃は紗枝とは正反対のようだったが、不思議と気があった。
何より糸乃は紗枝をとても慕ってくれるので、かわいい後輩だった。
ふと、周囲を見回す。いつもの友達がいない。
「あ、由芽は彼氏と会ってるんで、今日は私一人なんです。ほら、今日ホワイトデーじゃないですか」
どこか不満そうに糸乃は話す。
「彼氏ができてから由芽付き合い悪いんですよ。最近カラオケにも顔出さないし、お前も恋愛を取るのか!って」
むう、と頬を膨らませる糸乃。
糸乃の友人の後羽由芽が緑野純一と付き合い始めたというのは、純一と仲のいい風見から聞いていた。
糸乃の話を聞く限りでは交際は順調のようである。
「私にもいつか彼氏ができるのかなあ……周りにはろくな奴がいないし」
一人ごちる後輩に紗枝は小さく笑う。
「あー、笑わないで下さいよ。紗枝先輩には橋本先輩がいるからいいですけど、私には本当に誰もいないんですよ?」
「……」
「あ、ホワイトデーですし、今日ひょっとしてお返しもらうんですか? 安物だったら投げつけるべきですよ」
「……」
紗枝は微笑しながら小さく首を振る。
「んー? どうしたんですか笑って。あー、でも微笑むセンパイもとってもキュートでグッドです!」
糸乃は叫ぶと同時に腕に抱きついてきた。
ころころ変わる態度は気まぐれな猫のようだ。
「センパイ、これからちょっと街に出ません? おいしいクレープ屋見つけたんですよ」
時間は取らせませんという糸乃。
紗枝は顔を曇らせた。これから風見にお返しをしなければならない。
だが糸乃は言った。
「今日のセンパイ、なんか堅いですもん。甘いもの食べればリラックスできますよ!」
紗枝は驚いて目を見開いた。
よく見てると思う。柄にもなく緊張しているのを糸乃は感じとったのだろう。
たいした娘だ、と紗枝は感心し、彼女の頭を撫でた。
糸乃は嬉しげに目を細めると、元気な声で言った。
「じゃあ行きましょう。短いデートですけど楽しみー」
にこにこ笑う糸乃に紗枝は苦笑した。
駅裏のクレープ屋は学校帰りの学生で賑わっていた。
早目に並べたおかげで、長い行列に巻き込まれずにクレープを買うことができた。
糸乃に言わせれば計算通りらしい。行列のできる時間帯を把握してるらしく、紗枝は素直に感心した。
「このバナナコンボが結構いいんですよ。紗枝先輩のチョコレートミックスもなかなかですけど」
二人は近くのベンチに座り、一息ついた。
落ち着いたところで一口食べる。チョコレートの味が口中に広がった。
確かにこれはおいしい。甘ったるくないのがいい。
糸乃を見ると、はむはむとクレープを口に運んでいた。美味しそうに食べるが、頬に生クリームがくっついている。
紗枝は鞄からティッシュを取り出し、頬を拭いてやった。
「ふえ!? な、なんですかセンパイ?」
狼狽する後輩にクリームのついたティッシュを見せてやる。糸乃は真っ赤になって縮こまった。
「うう……恥ずかしい。けどセンパイに拭いてもらうのもなかなか……って子供扱いは嫌だし……」
小声だがはっきり聞こえている。だだ漏れの思考に紗枝は呆れた。そんなところもかわいいが。
クレープを食べながら紗枝は周りを眺めた。
駅裏通りは小さな店が多い。バス停は表の方にあるので、紗枝はあまり裏通りに来たことがなかった。
知らなかったが、雑貨屋やアクセサリー店が軒を連ねているようだ。
「先の方にはかわいいもの屋さんなんかもあるんですよー。ぬいぐるみとかぬいぐるみとか」
糸乃は目の前の店を真っ直ぐ指差す。
「ヘアピンとかそこで買ってるんですよ。あと変わったキーホルダーとかも置いてあったり……あれ?」
糸乃が不意に目を細めた。
視線の先を見ると、店前に若い男が二人いた。その影に隠れるように少女が一人。
少女は紗枝達と同じ制服を着ていた。
どうやら男達に絡まれているようで、紗枝はどうしようかと思案し──そして慌てた。
糸乃がすぐさま立ち上がって、真っ直ぐ彼らのところへ歩いていったからだ。
短慮だと思った。しかし放っておくわけにもいかない。見て見ぬふりなど元よりできるわけもない。
紗枝は残りのクレープを一息に呑み込み、糸乃の後を追い掛けようとして──軽く咳き込んだ。
ああ、もう。何を慌てているのだろう。落ち着いて迅速に、
「このナンパ野郎! その手を離せ!」
糸乃の乱暴な怒声が響いた。
紗枝はますます慌てる。まったくあの子はもうっ。
「誰? この子の友達?」
「知らないわ。けどあんたらがその人に迷惑かけてるのはわかる。だから助けるの!」
「ちょっと声かけてただけだろ。なんで文句言われなきゃ、」
「私は嫌だ、って言ってるでしょ」
少女の存外にはっきりした声が、近付く紗枝の耳に届いた。
……どこかで聞いたような。
よく見ると知った顔だった。隣のクラスの今口翔子だ。
「いや、そんなこと言わずにさ、ちょっと付き合ってもらうだけだって」
「遠慮する。私もう帰るんだから」
「ほら、迷惑してるじゃない! さっさとあっち行け!」
紗枝は頭が痛くなってきた。なんか糸乃がかき回しているだけな気がする。
男達が苛立った顔をした。怒って当然かもしれない。
しかし糸乃の口は止まらない。
「いたいけな美少女を毒牙にかけようとするなんて最悪な連中ね。この私が正義の鉄槌を……ひゃあ!」
ぺらぺらしゃべる糸乃の襟首をむんずと掴み、紗枝は強引に引っ張った。
「な、何するんですか紗枝先輩」
不満気な糸乃を小さく睨み、頭に軽くチョップを食らわせる。
「痛い! ……怒らないで下さいよー。私、あの人を助けるために、」
「甘利……?」
翔子がこちらに気付いた。紗枝は軽く手を上げて応えた。
「あれ? ひょっとして知り合いですか?」
頷くと、紗枝は翔子と男達を順に見やった。
さて、どうするべきか。
迷っていると一方の男が話し掛けてきた。
「結構かわいいね、君も。あのさ、よければ俺らと」
言葉と共に肩に手を乗せてきた。
多分悪気はなかったのだと思う。そういうスキンシップに慣れてる人間だったのだろう。
ただ、紗枝はそうではなかった。
肩に手を乗せられた瞬間、反射的にその手を掴んで関節を極めた。
そして崩しと同時にその場に投げ飛ばしてしまった。
「──がっ」
男の口から苦しげな呼気が漏れる。紗枝ははっと気付くと途端に慌てた。
悪気はなかったのだ。むしろ平和的にこの場を収めようと思っていたのに。
男の相方が呆気にとられている。翔子も目を丸くしている。糸乃だけが「カッコいい……」とうっとりしていた。
相方がようやく我に返って、男を助け起こそうとする。
男はなんとか立ち上がると、苦痛に顔を歪めながら睨んできた。
紗枝は自身の失敗を悔やんだが、こうなったら仕方がない。
糸乃に素早く目配せをする。糸乃は頷き、翔子の手を取った。
「行きましょう!」
「へ? あ、ちょっとっ」
糸乃は翔子の言葉を無視してそのまま引っ張っていく。
「この!」
男が掴みかかってきた。紗枝は胸ぐらを掴まれた瞬間、相手の足の甲を踏みつけた。
「いっ!?」
痛みに怯んだせいか、男の腕の力が緩んだ。
紗枝はその腕を外側にいなすように外すと、がら空きになった男の顎に掌底を叩き込んだ。
「──」
がくりと膝を落とす男。紗枝は飛び退るように距離を取る。
「おい!」
相方が詰め寄ってくる。こちらの方が体が大きく、強そうだった。
素手では無理だ。逃げても足にはあまり自信がない。何か武器はないかと周りを見回す。
背後にあったのは雑貨屋。
その店先の籠に、土産物だろうか、銀色の棒が光っていた。
ああ、そういえば今日のラッキーアイテムだったっけ。
紗枝は素早く籠に手を突っ込むと──振り返り様に迫ってきた相手の鳩尾に、銀色の十手をめり込ませた。
「がはっ!」
不意打ちだったせいか、男は激しく咳き込み倒れた。
時間にして一分も経っていない。しかしその短時間で、紗枝は鮮やかに男達を倒してみせた。
だがもちろんそれは紗枝の本意ではない。やってしまったという罪悪感の方が強い。
幸い男達は大怪我はしていないようで、ふらつきながらも立ち上がろうとしていた。
紗枝は申し訳ない思いでいっぱいのままぺこりと頭を下げ、鞄を拾い上げると急いでその場から逃げ出した。