緑野純一はクラスメイトの橋本風見と一緒に朝の通学路を歩いていた。
時間帯が違うので風見とは普段会わないのだが、今日は珍しく時間帯が重なった。事故でバスが遅れたためだ。
純一は一つ疑問に思い、風見に尋ねた。
「……甘利はどうした?」
風見の幼馴染みである甘利紗枝の姿が、どこにも見当たらなかったのだ。
違うクラスの二人だが、家が向かいにあるらしく、朝はいつも一緒に登校してくる。
それで恋人じゃないというから驚きだが、それよりも今日一緒じゃないことに純一は驚いていた。
「今日は先に行ったよ。日直だからとかなんとか」
「そうなのか?」
「昨日昼にそう言ってた」
風見は淡々と答える。
「今日はバレンタインだろ。貰わないのか?」
「……紗枝はいつも帰ってからくれるんだよ。学校では素振りも見せない」
「そうか」
まあ学校では恥ずかしいのかもしれない。紗枝が恥ずかしいという様子を見せるかどうかはおおいに疑問だが。
「純一はどうなの?」
「何が」
「後羽さん。貰えるんでしょ?」
「たぶんな」
「嬉しい?」
「そりゃ、な」
風見がふっ、と小さく笑みを浮かべた。
「なんだよ」
「うらやましいだけだよ」
「なんだそりゃ。お前も甘利から、」
「違うんだ」
風見は、強い口調で言った。
純一はつい気圧される。風見の顔からは一瞬で笑みが消えていた。
「紗枝は、ぼくとは違うんだよ」
その声はどこか寂しげな響きだった。
純一にはわけがわからなかった。それは今の風見の表情が、初めて見る類のものだからだろうか。
落ち込むというよりは、諦めに近い色。
「違うって、何が」
訊く。しかし風見は首を振るだけで答えなかった。
◇ ◇ ◇
午前の授業中、翔子はずっと考えていた。
鞄の中にはチョコが入っている。それを二つ前の席の人物に渡すわけだが、どのタイミングで渡せばいいのか、翔子は測りかねていた。
休み時間の度に、斜め後ろの席から視線が飛んでくるように感じる。からかい混じりの小町の視線だ。
うっとおしいが、しかし翔子は動かない。今はまだ人目につきすぎる。やはり放課後まで待つべきだろう。
放課後なら、頑張れる。
(傷つくかも……だけど――)
想いは本物だ。嘘をつきたくない。誤魔化したくない。
ならば、やることは一つだ。
翔子が決心を固めた瞬間、三時間目終了のチャイムが鳴った。
昼休み。
二年四組の教室には、歓喜の渦が巻いていた。
喜びの声を上げるのは主に男子だが、女子の声もよく上がっている。
原因は一人の女子生徒だった。
「甘利さんありがとう!」
「ありがとう甘利」
「紗枝ちゃんスゴいよ!」
次々とお礼や称賛の言葉が飛ぶ中、甘利紗枝は嬉しげに微笑んでいた。
クラスメイトたちの手元には綺麗に等分されたチョコレートケーキがある。
紙皿とプラスチックのフォークまで用意されていて、みんな喜びながらも驚きの顔を紗枝に向けていた。
「これって手作りなんでしょ?」
紗枝は頷く。四十人近いクラスメイト全員に配るために、直径十八センチのケーキを四つも焼いてきたのだ。
本当は家庭科室を使いたかったのだが、調理部や他の女子生徒たちが使用していたので冷蔵庫を借りるにとどまった。
家から運ぶのには苦労した。人の少ない時間帯を選んでいなかったら崩れていたかもしれない。
みんな喜んでくれているみたいだからそんな苦労もよかったと思える。
「でも、なんでこんなに作ってきたの? バレンタインなら好きな人だけに作ればいいのに」
一人の女子がそんな質問を投げ掛けてきた。
紗枝はどう答えようか困った。なんでと訊かれても、
「昔からだもんね、紗枝は」
小学校からの友人、竹下葉子(たけしたようこ)が代わりに答えた。
「え? 昔からって何?」
「小学生の頃からバレンタインにはケーキ作って学校に持ってきてたよ」
「……それ本当?」
「本当よ。中学でもそうだったもん。ね、紗枝」
紗枝は頷く。ようちゃんナイスフォロー。
「でも、どうして?」
「ほら、この子無口じゃん。だから昔はクラスで浮いてたの。でも友達の提案でケーキ作ったらみんなに大ウケして。それ以来紗枝の恒例行事になってるわけ」
へえー、と興味深そうにクラスメイトたちは葉子の話を聞いている。
バレンタインの恒例行事。
紗枝にとっては習慣みたいなものだった。最初に提案した幼馴染みも、まさかここまで定着するとは思っていなかっただろう。
一年間の感謝を込めて、クラスメイトたちに贈るチョコレートケーキ。
それで喜んでもらえたら紗枝は大満足だ。みんなと過ごす学校生活を、紗枝は何よりも大切にしている。
かつて幼馴染みに手を引かれ、友達と過ごす楽しさを教えてもらったあのときから。
「めちゃくちゃうめえぞこれ」
「甘利さん、作り方教えて!」
「ああ、幸せなバレンタインになりました……」
みんなの喜ぶ様子に、紗枝は大満足の笑みを浮かべた。