二月十三日。
甘利紗枝が橋本家を訪れたのは夜九時過ぎだった。
橋本風見はとりあえず幼馴染みを中に招き入れようとしたが、紗枝は玄関で立ち止まったまま上がろうとしない。
怪訝な顔で相手を見ると、彼女はいたずらっぽく笑い、
「私ですよ、風見さま」
普段の幼馴染みにはありえない言葉を囁いた。
「なんだ冴恵か」
エプロン精霊の方だった。風見は小さくため息をつく。
「あー、そんなにあからさまにがっかりしないでください」
「ごめん。その恰好だったからわかんなくて」
風見は冴恵の着ている厚手のコートを指差して言った。
暖かそうな白いコートは風見が紗枝に贈ったクリスマスプレゼントだ。紗枝は登下校の際に必ずそれを着用していた。
だからそのコートを着ているときは甘利紗枝であると、風見は思い込んでいたのだ。
おそらくコートの下にエプロンを着けているのだろう。『冴恵』は、紗枝がそれを着用しているときしか現れない。
「で、こんな時間に何の用? 夕食はもう食べたんだけど」
いつもどおり世話を焼きに来たのかと尋ねると、冴恵は首を振った。
「いえ、風見さまにチョコレートを差し上げたくて」
意表を突かれた。別に明日の行事を――全国的な行事を忘れていたわけではないが。
「……バレンタインは明日だけど?」
「明日は無理なので今日参りました」
「無理?」
「明日は紗枝さんが風見さまにチョコレートをプレゼントなさるかと思います。私はお邪魔虫ですよ」
「別に気にしなくても、」
「何をおっしゃるんですか!」
冴恵は風見にずいっ、と迫り寄った。
「紗枝さんは確実に風見さまに恋慕の情を抱いておいでです。だから明日はチャンスなのですよ」
思わずのけぞる風見。気圧されながらなんとか言葉を返す。
「チャンスって、誰にとって」
「お二人にとってですっ」
力強い主張に風見は呑まれるように口をつぐんだ。
「クリスマスのときも何もなかったのでしょう? なぜお二人はお互いに想い合っているにも関わらず、関係を深めようとされないのですか」
「おいおい……」
「イベント事は常に勝負のときたりえます。バレンタインデーですよ? 紗枝さんも気合い入れてました」
「なんでわかるんだよ」
「冷蔵庫にでっかいチョコレートケーキがありました。おそらく明日のためです」
「…………」
チョコレートケーキ、と聞いて風見はため息をついた。
「どうしましたか?」
「いや、毎年変わらないなと思って」
「変えるのは風見さまですよ! 明日を境にお二人は恋人同士に、」
「わかったから」
妙にけしかける冴恵に、風見はうんざりした気分になった。
紗枝の体で、顔で、そんなことを言わないでほしい。
風見は適当にエプロンメイドをあしらうと、もう遅いからと甘利家宅まで送っていった。
別れ際に渡された箱には綺麗なチョコレートマフィンが入っていて、家に帰ってから風見は一人でそれを食べた。
控え目な甘さは紗枝の作るそれによく似ていた。
(好き勝手言うなよ……)
冴恵に対して内心で文句を言う。
(そりゃあきっかけになったらいいなとは思うけど、これまで一度だってそうはならなかったんだぞ)
誕生日。クリスマス。バレンタインデー。イベント時にはいつだって何かしらの事をやってきた。
プレゼントもパーティーも恒例で、二人にとって当たり前の過ごし方だった。
だからといって、それが互いの距離を縮めるとは限らない。
(……バレンタインくらいで何が変わるのさ)
幼馴染みという関係は本当に厄介なのだ。深い間柄でありながら、いやそれゆえに、想いを伝えるのは難しい。
それに、彼女の作るチョコレートケーキは、
「……寝よ」
風見は深いため息とともに自室のベッドに潜り込んだ。
◇ ◇ ◇
翌二月十四日。
早朝の二年三組の教室で今口翔子は意気込んでいた。
気合いを入れて作ってきたチョコレート。これをあいつに渡すのだ。
前から気になる相手ではあったが、いざこうして行動に出るとなると緊張する。
教室には他に誰もいない。さすがに早く来すぎたか。
翔子は深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした。心臓の音が妙に体内に響いている。
「ほほう、翔子は手作り派かね」
急に背後で声がして、翔子は椅子から転がり落ちそうになった。
振り返って見ると、クラスメイトの安川小町(やすかわこまち)がニヤニヤした笑みを浮かべて翔子を見下ろしていた。
「おはよう翔子。勝ち気なキミでも緊張する?」
「な、何のこと?」
「橋本くんにチョコ渡すんでしょ?」
「――」
翔子は絶句した。
「教室で一人でニヤニヤしているから何かと思ったよ。私が二番目でよかったね」
「……」
こっそり背後に忍び寄った人間が何を言う。
翔子は大きく息を吐き出すと、教室を出ようと椅子から立ち上がった。
「どこ行くの?」
「トイレ」
「私も行く」
ついてこないでよ。
「怒らないでよ。謝るから」
「怒ってない」
「怒ってるよ。いや、怒ってもいいけど、実際どうするの?」
教室のドアに手をかけようとして、翔子は動きを止めた。
「……どう、って」
「ただ渡すだけなのか、ちゃんと告白するのか、どっちなのかってこと」
「……」
その問いかけに思わず押し黙る。
それは――
「……迷ってるの?」
頷いた。
小町は肩をすくめる。翔子の代わりにドアを開けて廊下に出た。
小町に続いて廊下に出ながら、翔子は呟いた。
「……あいつには、他に相手がいるんだよ」
「甘利さんのこと?」
頷く。翔子は恋敵のことを思い浮かべた。
誰よりも橋本風見の近くにいる少女、甘利紗枝。
幼馴染みだと風見は言う。しかし翔子には、風見の心が透けて見えるように感じていた。
橋本風見は、甘利紗枝が好きなのだ。
風見がそう明言したわけではないが、翔子にはそうとしか見えなかった。
「まあ、橋本くんが甘利さんに何かしらの想いを抱いているのは確かだろうね」
「……小町にもそう見える?」
「まあね。でも、甘利さんはよくわからないかな」
それは翔子も同感だった。
甘利紗枝はいつも無口で、何を考えているのかわからないところがある。
いい人なのだろうというのはわかる。クラスメイトや後輩にも好かれているようで、悪い噂は少しも聞かない。
だが、特に親しいわけでもない翔子には、彼女の内面を窺い知ることはできなかった。
廊下を歩きながら、翔子は顔を曇らせる。
「でも、それは関係ないでしょ?」
不意に小町が言った。
二人以外誰もいない廊下。早朝の寒々しい空間で、翔子は隣の友人を見つめた。
「翔子が想いを伝えることと、甘利さんは関係ない。翔子の気持ちは誰にも冒せない。伝えたいのなら伝えるべき」
「…………」
簡単に言ってくれる。それは正論かもしれないが、できるかどうかはまた別のことだ。
「失敗するとわかってて告白するなんて……そんな勇気ないよ」
「失敗するかどうかなんて、まだわからないでしょ」
「勝手なこと言わないで」
「なんで勇気が出ないの?」
尋ねてくる小町を翔子は睨んだ。
「傷つくことが嫌だからよ! そんなわかりきったこと訊かないでよ!」
苛立ちとともに翔子は声を荒げた。冷たい廊下の壁に、声の波は吸い込まれて消える。
今でも充分仲良くやっているのだ。その関係を壊したくないし、傷つくことがわかっていてどうして告白などできるだろう。
小町にだってそれができるとは思えない。
「傷つくことって、そんなに駄目なこと?」
しかし小町は、特に気にする風でもなく、そう返してきた。
「え?」
「傷ついて、でもそれが想いを確かにする。傷つくことが自分を強くする。決して悪いことじゃない」
「そ、そんなこと」
「少なくとも私はそうだったよ。現在進行形で今も、そう」
「――」
翔子は驚いた。これは、今彼女は、かなりプライベートなことを話しているのではないか?
「ストップ! いいよそんなこと言わなくて」
「翔子になら話してもいいけど?」
「私が困るわよそんなこと……」
どう返せばいいのか言葉に詰まった。
小町は小さく笑う。
「私たち、これから受験だよ? 一年間そのすっきりしない気持ちを抱えたまま頑張れる?」
「……じゃあどうすればいいのよ」
「わかってるくせに」
「……」
わかっている。実際、本当に迷っていたのだ。
手作りのチョコまで持ってきた。義理だと言ってそっけなく渡すことも、冗談交じりに笑って誤魔化すこともできるが、しかし、
「……放課後まで、まだ時間あるよね」
「保留?」
「いや……」
翔子は呟き、それきり口を閉ざした。
小町ももう何も言ってこなかった。
二人はそのままトイレに行き、教室に戻るまで何の言葉も交わさなかった。