ある日曜日のこと。
田中亜季は部屋の真ん中で緊張していた。
六畳間の一室。小さな座卓の前にちょこんと座り、彼女は部屋の主を待っている。
勉強机と大きなベッド。壁に張り付くように置かれたタンス。タンスの横の押し入れ。他には座卓と、二つの窓。
高橋雪成の部屋は、そんな簡素さに満ちた部屋だった。
小学生の頃までは何度も訪れていたが、ここ最近は全然だった。
部屋の雰囲気は昔と変わっていない。
机の位置が変わっていたり、ベッドのサイズが大きくなっていたりと、確かに部屋自体は変化している。しかしシンプルな雰囲気は昔のままである。
亜季は懐かしい気持ちになった。ここにはちゃんと昔の空気が残っている。
外は雨が降っている。
冷たく聞こえる雨音は、静寂を生み出すような気配を伴った矛盾の音だ。
この雨のせいで──おかげで、亜季はこの部屋にいる。
今日は本来デートのはずだったのだ。ところが秋雨前線の余計な頑張りで、何度目かのデートは中止になってしまった。
……いや、正確には中止ではない。
「お待たせ」
ドアが開き、幼馴染みが姿を現した。烏龍茶の入ったグラスを二つ、盆に載せている。
「う、うん」
亜季は腰を浮かせたが、雪成がそれを制した。盆を卓の上に置き、グラスを一つ亜季に差し出す。
「あ、ありがとう」
声が微かに震えた。
このような状況を作ったのは、実は亜季の方だった。
雨が降っただけでデートがなくなるのはあまりに残念である。なんとか代わりの案を出そうとして、思い付いたのがこれだったのだ。
『家、行ってもいい?』と亜季がメールをすると、雪成は案外簡単にOKしてくれた。
随分とおもいきったことをしたなあ、と亜季は他人事のように振り返ったが、これは確かに自分が望んでいることだった。
なんというか、『いろいろと』望んでいる。
二人が付き合い始めて一ヶ月になる。
互いを好き合い、順調に仲を深めてはいる。デートを幾度も重ね、学校の昼休みには一緒に亜季の手作り弁当を食べるようになった。
それはそれで幸せなのだが──そこから先の段階に、二人は踏み込んでいなかった。
まだキスさえしていないのである。せいぜい手を繋ぐ程度の接触しかなく、亜季は少し焦れったく思っていた。
最大の原因は雪成が奥手すぎることだろう。雪成は亜季を大事にしてくれるが、それゆえにどこか積極性に欠けていた。
別に急がなくてもいいとは思う。しかし、思春期の男の子ならもう少しそういうことを求めてもいいと思う。
亜季は雪成の彼女なのだから。
「……」
亜季は烏龍茶を一口飲んだ。液体は渇いた喉を潤し、高鳴る胸の奥へと落ちていく。
(うあー……私、緊張してるよ……)
すぐにまた喉が渇く。唾が呑めなくなる程に口の中はカラカラで、鼓動のリズムも激しい。
そっと顔を上げる。
対面に座る雪成と目が合った。
(!)
ふい、と目を逸らす。
意識過剰かもしれない。しかし意識してしまうのを止められない。
「……そんなに緊張するなよ」
呆れたように雪成が言った。
うつ向いて亜季は答える。
「して、してないよ」
「どもるなどもるな」
「うう……」
「なんにもしないから安心しろ」
雪成は苦笑する。
亜季はその言葉におもいっきり眉を寄せた。
「……な、なんだよ」
亜季の睨みに雪成はたじろぐ。
「……二人っきりだよ」
休日にも関わらず、雪成の両親は仕事で出ている。
「……ああ」
「何もしないの?」
「……何も、って、何を」
「……わかるでしょ?」
亜季は真っ赤な顔で雪成を見つめる。
「私は……したいよ」
「……」
「手をつないだり、抱き締め合ったり、キスをしたり……そ、それ以上も、私……」
「……」
雪成は答えない。しかし表情を見るに、慌てているのは一目瞭然だ。
亜季はなんとか心を落ち着かせようと、大きく息を吐き出した。
「……たぶんね、私、わがままになっちゃったの」
「……」
「雪成くんの彼女になれてすごく嬉しいの。幸せで、毎日が楽しくて、ずっと浮かれてしまう。でも……同時に不安なの。ちゃんと私、彼女できてるかなって」
「……」
「私、魅力あるのかな、って……」
亜季の声はだんだん小さくなり、最後にはずいぶんとか細いものになってしまった。
「……どこがわがままなんだよ」
「だって、『足りない』って思っちゃうんだよ? もっともっと雪成くんに近付きたい、愛されたいって思っちゃって、気持ちが抑えられないの。こんなの初めてで、私……」
亜季は溢れ出る想いに流されるように、心情を吐露する。
ずっと「お姉さん」として雪成の側にいたのだ。だから亜季は、雪成のために何かをすることはあっても、自分の欲や願望のために何かをすることはほとんどなかった。はっきり表に見せることなどありえなかった。
しかし今の亜季は、確かに自分のしたいことを主張している。
それはお姉さんではなく、恋人としての立ち位置。
その主張の内容はかなりアレだったし、亜季自身恥ずかしくて仕方なかったが、抑えることなどできなかった。
「……だから雪成くんも、もっと……」
熱で浮かされたような目で、亜季はじっと雪成を見つめた。
すると、雪成はすくっと立ち上がり、亜季のすぐ隣に寄ってきた。
「……ゆき」
名を呼ぼうとした亜季の口が、「な」で止まる。
雪成がしゃがみこむや、亜季の体を抱き締めたからだ。
力強い抱擁だった。背中に回された両手は、どこか焦るように荒々しく、亜季にしがみついてきた。
胸が遠慮なく押し付けられる。
「……どう、したの」
かろうじて、それだけを訊く。
雪成は小さく呟いた。
「限界だ……」
「え?」
「いくらなんでも反則だろ」
何が、と問おうとして、その言葉は発せられなかった。
雪成の唇が亜季の唇を開かせなかったからだ。
「ん──」
抵抗はしなかった。受け入れたわけではなく、突然のことに体が動かなかっただけだった。
唇が離れる。温かい感触が消える。
雪成の目がじっと亜季を見つめてくる。いつもの優しい印象はなく、野生動物みたいだと亜季は思った。
そのときになってようやく、自分が雪成に求められていることを理解した。
「ゆ、雪成くん」
「もう止まらないからな」
雪成のノンストップ宣言に、亜季は顔を真っ赤にしながらもこくりと頷いた。