◇ ◇ ◇
待ち合わせ場所の北校舎裏に行くと、すでに相手はそこにいた。
眼鏡をかけた細面の上級生。スマートで背の高いところは幼馴染みによく似ていると思う。
三原正志(まさし)は亜季の姿を認めると、穏和な笑顔で迎えた。
「亜季ちゃん」
どこか嬉しげな声で呼ばれて、亜季はぎこちなく笑う。
二人が最初に出会ったのは図書館。正志はカウンターで受付をしていた。
入学当初から図書館に通っていた亜季は、すぐにその顔を覚え、覚えられた。
梅雨の時期にはおすすめの本を教え合うくらいに親しくなり、夏休み前には下の名前で呼び合うようになった。
正志は亜季にとって、気安い先輩だった。
穏和で人懐っこい性格は近付きやすかったし、本という共通の話題があったため、会話にも困ることはなかった。
部活や委員会のような組織に入っていない亜季にとっては、唯一親しい先輩だった。
そういった『先輩後輩』の関係は亜季には新鮮で、とても楽しく嬉しいものだった。
しかし、
「亜季ちゃん」
もう一度、正志は名を呼んだ。
亜季は顔を上げ、真っ直ぐ相手を見つめる。
眼鏡の奥の目は穏やかながらも真剣で、唇は真一文字に結ばれている。緊張が強く窺えた。
亜季は軽く息を呑む。緊張を移されたみたいだ。
正志は静かに口を開いた。
「急に呼び出してごめん。でも、来てくれてありがとう」
「いえ……」
亜季の方があるいは緊張しているかもしれない。返事もそっけなくなってしまう。
「……えっと」
「はい……」
「……亜季ちゃん」
「……はい」
「ぼくは……君が好きだ」
「…………はい」
頷く。喉が微かに震えた。
予想していたことだから、前置きなく単刀直入に言われても取り乱しはしなかった。だがやはり驚きは隠せず、亜季は相手を見返すのが少し辛かった。
「初めて会ったときは何も思わなかったけど、話をして君を知っていくうちにぼくはなんだか嬉しくなっていった。穏やかに本を読む亜季ちゃんを見るのが好きで、当番の日はいつも君を待っていた」
「……」
「君と同じ本を読むのが楽しかった。本の話ができて嬉しかったし、共通の趣味を持てることがすごく嬉しかった」
「……」
「ぼくは君が、とても好きです。だから、もしよければ、ぼくと付き合って下さい」
はっきり想いをぶつけられた。
もし図書館などで準備なくいきなり言われたら、きっと石か何かで頭を殴られたような衝撃に襲われただろう。しかし、準備できていても、亜季の胸には鉛のように鈍く重い思いが広がったに違いない。
実際、今その胸には、立っているのがやっとの苦しさが渦巻いている。
それでも逃げるわけにはいかないのだ。
勇気をもらったから。
「先輩……ごめんなさい」
亜季は深々と頭を下げた。
「先輩のことは嫌いじゃありません。全然そんなことなくて……むしろ先輩に好きって言われて嬉しいくらいです。でも、その気持ちに応えることはできません」
「……」
「私、他に好きな人がいるんです。だから、先輩と付き合うことは……できません」
言い切って、途端に苦しさが増した。
相手の想いが真剣だとわかっているから、こちらも真剣に答えなければならない。応えられないが答えなければならない。
亜季の答えは、断ること。
他人主義の彼女にとって、それはとても苦しいことだった。
それでもそうしなければならない。自分のために。正志のために。そして、幼馴染みのために。
すると、正志は微かに目を細めた。
「ああ……それは、しょうがないよね……」
僅かに言い淀む声は寂しそうだ。
「ごめんね。変なこと言って困らせて」
「そんな! 変なことだなんて」
憂いの色が隙間から覗く正志の表情は、目を逸らしたくなる程に寂しい。
亜季は目を逸らさなかった。
悲しいことを言わないでほしい。亜季は、嬉しかったのだから。
「……すごいです。先輩は」
「え?」
「想いを伝えるって勇気がいりますよ。私にはそんなの……だから、先輩はすごいです」
正志は目をしばたき、それからおかしそうに微笑んだ。
「ちゃんと断れたじゃない」
「え?」
「ぼくの告白をちゃんと断った。それも、勇気のいることだと思うけど?」
正志は茫然とする亜季にただ笑いかける。
「本当はさ、ちょっと期待していたんだ」
「何、を?」
「亜季ちゃんが断らないことを。君が頼み事を断らない子だっていうのは、この半年で十分わかっていたからね。だから、結構期待してた」
「……」
「でも、そんなことはなかった。君は決して受け身な人間じゃないし、自分の意思を通せる強い子だ。だから、亜季ちゃんはすごい娘だよ」
「……」
真正面から褒められて、亜季は思わず赤面した。
正志は微笑んだまま亜季を見つめている。
「で、その相手って?」
「へ?」
「亜季ちゃんの好きな相手」
「え、あ、その、……お、同い年の幼馴染み、です」
「ああ、前話してた子か。うまくいくといいね」
「は、はい」
亜季は頷くと、もう一度頭を下げた。
「もういいから、先に行って。ぼくはもう少しここにいるよ」
「……はい」
ゆっくりと足を逆方向へ返して、亜季は背を向ける。
そのとき、最後の声がかけられた。
「明日も、図書館に来てくれる……?」
不安げな問いかけは先程の告白よりも遠慮がちだった。
亜季は顔だけ振り返り、言った。
「……またおすすめの本、教えてくださいね」
笑顔でそう答えると、正志は救われたような、ほっとしたような顔で、「うん」と頷いた。