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ある失恋話(後編)・3


          ◇     ◇     ◇

 食事を終えた後、沙織が遊園地に行きたいと言ったので、二人は市街地の端にある遊園地に向かった。
 遊園地は家族連れやカップルでごった返していた。入場券を二枚買って、二人は中へと入る。
 人混みの苦手な正志は園内の賑わった様子に辟易したが、沙織は笑顔だった。
「みんな楽しそうね」
「沙織さんが一番楽しそうだよ」
「楽しみに来たんだもん」
 正志の手を引いて、沙織はまっすぐ目的のものへと向かった。
「正志くん、あれに乗ろうよ」
 沙織の指差した先には、轟音と共に空中を駆ける乗り物があった。
「ジェットコースター?」
 頷き、沙織は問い掛けてくる。
「正志くん、ああいうの苦手?」
「別に苦手じゃないけど……」
「えー、小さい頃正志くん泣いてたよー」
「幼稚園のときの話だよ! 今は平気だって」
「三つ子の魂百までって言うじゃない。試してみようか」
「泣かないってば」
 行列の最後尾に二人は並ぶ。
 十分待ちの後、順番が回ってきた。前の客と入れ替わりにコースターへと乗り込み、
(──え?)
 すぐ横をすれ違ったカップルに憶えがあり、正志は思わず振り返った。
 遠ざかる後ろ姿は見知った小柄な女の子のものだった。その隣には見知らぬ長身の男の姿。
 背中まで届く長い黒髪を見間違えるはずもなく、
「正志くん?」
 沙織が不審そうに正志の顔を覗き込んできた。
 正志は慌てて顔を戻す。何を動揺しているのだろう。今のが『彼女』だったとしても、自分が揺らぐ必要など何もない。たとえその隣に誰がいたとしても。
 しかも今は沙織が隣にいるのだ。なおさら動揺など見せてはならない。
「なんでもないよ。早く乗ろう」
 吹っ切るように正志はコースターへと進む。
 沙織は怪訝な表情を見せたが、正志は気付かない振りをした。


 二人はいろんなアトラクションに臨んだ。
 ジェットコースターに乗り、お化け屋敷に入り、巨大迷路を歩いた。
 沙織は子供のように笑い、驚き、喜んだ。それを見て正志も嬉しくなった。
 ちゃんと楽しんでもらえている。誕生日プレゼントの代わりになるか心配だったが、幼馴染みの華やいだ様子に正志は安心した。
「次はあれ乗ろうよ」
 迷路を抜けてベンチで休んでいると、沙織が遠くを指差した。
「観覧車?」
 ゆっくりと回転する風車のようなそれを、沙織はじっと見つめる。
「ちょっと疲れたから休憩代わりに」
「了解。……って、休憩ってことはまだ乗るつもり?」
 もう四時に近い。閉園までまだ時間はあるが、残暑の厳しい日照りを受けて、正志は正直バテ気味だった。
 沙織は小さくはにかむと、再び正志の手を取る。
「もう少しだけ付き合って。今日だけだから」
 正志は幼馴染みに微笑む。
「今日だけなんて言わないよ。沙織さんが望むなら、いくらでも」
 それくらいのことしか正志にはできないから。
「ありがと。行こっか」
 二人は並んで歩き出す。
 観覧車は順番待ちだった。子供連れよりもカップルが多く、正志は気まずく思った。
 しばらくして二人の番が回ってきた。宙にぶら下がった鉄の籠は二人の体を預けるには頼りなく見え、正志は大丈夫かと危惧したが、沙織があっさりと乗り込んだので後に続いた。
 頼りないと思った空中密室は、特に問題もなく上へと上がっていく。
「こっちの方が苦手?」
 唐突に沙織が尋ねてきた。
 一瞬何のことかわからなかったが、すぐに『三つ子の魂』のことだと気付く。
「だから別に苦手じゃないって」
 すると沙織は向かいのシートから立ち上がり、正志の隣に座った。
 二人とも一方のシートに座るとバランスが悪いんじゃないかと思ったが、沙織は気にもせず、正志の手を当たり前のように握った。
「温かいね、正志くんの手」
「沙織さんも温かいよ」
「それは私が温かい人だからだよ」
 恥ずかしげもなく沙織は言った。
「何? 急に」
「お父さんが言ってたの。昔から『手が冷たい人は心が温かい』って言われているけど、お父さんはいつも『心が温かい人は体も温かい』って言ってた。私はそれ、正しいんじゃないかと思う。正志くんも温かい心を持っているから、手が温かいんだよ」
 その言葉はきっと心底からのものなのだろう。そして、沙織は言葉通りに温かい心を持っているのだろうと正志は思った。
 しかし、
「……ぼくは違う」
 正志はうつ向き、低い声で呟いた。
 え? と沙織は戸惑いの表情を浮かべる。
「温かくなんて、ないよ」
「そんな事は、」
「本当に温かい人なら、沙織さんを傷付けたりしない」
「え……」
「亜季ちゃんに対しても恨んだりしない。亜季ちゃんの彼氏に対しても嫉妬したりしない」
 正志はさっきの、ジェットコースターの入口での出来事を思い返していた。
 すれ違った小柄な女の子。田中亜季という名のその少女は、正志の失恋の相手だった。
 彼女の隣にいたかった。彼女の笑顔が欲しかった。しかし、それはもう叶わない。
 さっき彼女の隣には、別の男が立っていたから。
 彼女の幸せな顔が嬉しく、また辛く響いた。
 強烈に暗い情念が正志の胸中で渦巻いていた。こんなにも自分は嫉妬深く、醜い。
 そんな自分が温かい人なわけがなかった。相手の幸せを心底から望めない自分は、ひどく冷たい人間だと思う。
「さっきの子が、正志くんの……?」
 困惑気味な、遠慮した声で問われる。正志は小さく頷いた。
「……」
 沈黙がゴンドラの中を満たした。
 沙織は何を言えばいいのかわからないらしく、正志も何を返せばいいのかわからなかった。


 観覧車が下に着いた瞬間、正志はほっとした。
 嫌な空気にしてしまった。それを変えるような気の利いた言葉を言えるわけもなく、正志はただ無言のままゴンドラから降りようとした。
 が、
「正志くん──」
 沙織は立ち上がらず、正志の手を掴んだまま離さなかった。
 バランスを崩しかけた。何とかこらえて振り向くと、沙織がじっとこちらを見つめていた。
「もう一周……」
「え?」
「もう一周だけ、付き合って」
 正志は困惑した。嫌な空気のままもう一周なんて、あまりに気まずい。
「で、でも」
 順番待ちは一人もいなかった。誘導係の人に目を向けると、にっこりとした笑顔で
「続けてお乗りでしたら、どうぞそのままで」と返された。
 正志は迷ったが、沙織が手を離しそうにないので仕方なく座り直した。
 鍵をかけられたゴンドラが再び上昇する。正志は沙織に問い掛けた。
「沙織さん、なんで急に」
 すると沙織は、おもむろに正志を抱き締めてきた。
「!?」
 正志は突然のことに固まる。
 優しい抱擁だった。甘い匂いと柔らかい感触が心地よく、正志は陶酔しそうだった。
 沙織は耳元で囁く。
「支えてあげる」
 小さな、しかし確かな声。
「辛いなら私が支えてあげる。甘えていいんだよ。だって、私は正志くんのお姉さんだから」
「……」
 泣きたくなった。沙織の温かさは嫌な気持ちを全部洗い流してくれそうだった。
「ぼくは……いつも甘えているよ」
「いいじゃない、それで。後ろめたく思わないで。私、正志くんにならいくらでも甘えてもらって平気だから」
「……うん」
 正志は目の前の温もりに体を預ける。
「好きだった……本当に好きだったんだ」
「うん」
「でも、もう叶わないことなんだよね……」
「……うん」
 沙織の頷きに、心が震えた。
 気休めの言葉を彼女は口にしなかった。叶わぬ恋。それを肯定されたことが寂しかった。
 涙が滲むように出て、やがて止まらなくなった。観覧車が下り切るまで、その涙は続いた。
 そのときになって、正志はようやく、一つの恋が終わったのだと感じた。

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