◇ ◇ ◇
外に出ると、真っ暗な空から白い雪がさらさらと流れるように降っていた。
玄関の明かりを受けて微かに輝く銀色。寒々とした風が顔を撫で、依子は身震いした。
また、声がした。
(聞こえる?)
聞こえた。はっきりと、頭の中に少女の声が。
依子は庭をそろそろと慎重な様子で渡り、門の前まで近付いた。
いるのだろうか、そこに。
門を開けた。
広がる闇の中、家の前の常夜灯が雪景色を照らしている。
誰もいなかった。
依子は一瞬きょとんとなり、それからため息をついた。白い息が顔にかかるように立ち上る。
気のせいだったのかもしれない。考えてみれば当たり前だった。彼女がここまで来ているわけがない。私がここにいることさえ知らないのに。
(…………依子)
そのとき再び声が頭に響いて、依子は弾かれたように顔を上げた。
門から出て依子は駆け出す。近くまで来ている。なぜかは知らないが、確かに今の思念は、
「――」
白い世界の真ん中で、依子は案山子のように立ち尽くした。
目の前に小さな人影が立っている。その背は依子よりずっと小さくて、依子よりずっと深い目を持っていた。
「……美春さん」
美春という名の少女は、小さく頷いた。
「……どうしてここが?」
依子の質問に思念が返ってきた。
(明良に手伝ってもらったの。明良は魂を感知したり探すのが得意だから)
「あきら……?」
(私のパートナー。この前、あなたも会ったはずだけど)
言われて依子は思い出した。見た目は美春とそう変わらないくらいの歳の少年。彼が明良というパートナーなのだろうか。
「え? でもその人は?」
姿が見えないことに疑問を抱くと、美春が答えた。
(彼も私と同じ生霊。ただ、普段は幽体でいるから今は見えない。でもちゃんとここにいる)
「そう、なんだ」
見えないが、美春がそう言うならそうなのだろう。依子は気にしないことにした。
「えっと、こんばんは」
(うん……)
二人は互いに挨拶を交わし、そして黙り込んだ。
何を言えばいいのだろう。どこかに引っ掛かっていた思いがあったはずなのに、本人を目の前にするとそれが出てこない。
依子は目前の少女を見やる。相変わらず口を開かない。
やっぱり姉に似ていると思った。直接会うとどう接すればいいか迷ってしまうところまで、よく似ている。
美春が微かに身じろぎをした。
(あの)
「う、うん」
(私……あなたに謝りに来たの)
「……え?」
予想外の言葉に依子は戸惑いの声を上げた。
(あの時のことをずっと謝りたかった。あなたの大事なものを壊してしまって、謝りきれないくらい申し訳なく思ったから……)
「……」
依子は絶句した。こちらは美春に対して恨みなど少しも抱いていないのだ。それなのに、
(償いなんてできないことはわかってる。でもこれだけは、改めてきちんと伝えたかった。だから……ごめんなさい)
深々と頭を下げてくる少女に、依子は軽く息を呑んだ。
この人はそのためだけにこんなところまで来たというのか。たった一度しか会っていない人間にただ謝るためだけに。
依子はほう、とたまっていた息を吐き出した。
「いいの、もうそのことは、別に」
(……でも)
「また少し、お話したいけど……いいかな」
雪が弱くなった。寒さは変わらないが、だいぶましになった。
(……うん)
少女の頷きに依子は小さく微笑んだ。
結界が張ってあるため、美春は屋敷内に入れない。依澄に頼めば解いてもらえるだろうが、今は姉と顔を会わせたくなかった。
二人は屋敷から少し離れて、畑道の傍らにぽつりと建っている東屋に入った。
町内にある休憩場所の一つで、畑仕事の合間によく使われている場所だ。寒さはあるが、雪を被らなくて済むのでましといったところか。
木製ベンチに腰掛けると、二人は顔を見合わせた。
(……話、って?)
「あ、うん……」
依子は軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
別に大層な話をするわけではない。ただ、わだかまりなど一切ないことをちゃんとわかってもらいたかった。
「ここ、私のふるさとなの」
(……そうなんだ)
「うん。でも私は八年間戻ってこなかった。戻れなかったの」
美春が訝しげに目を細めた。
依子は続ける。
「緋水の神様……ここの土地神様に私の魂を受け入れてもらえなくてね、ここから離れなくちゃならなくなったの」
(……?)
「でも美春さんが私の魂の形を変えてくれたおかげで、私はここにまた戻ってこれた。美春さんにそんな気がなかったのはわかってるけど、それでもここに戻ってこれたのは美春さんのおかげ」
(それは……)
「だから、恨むどころかむしろ感謝してるの。美春さんが負い目を感じる必要なんてないんだよ」
(……)
美春は何も言わない。無表情な顔は、話を理解できているかどうかもよくわからない。
ただ、納得はできていないようだ。
(……私の犯した失敗が功名だったと?)
「結果的にね。だから気にする必要はないんだよ」
(……それは、責任を負わなくていい理由には、ならない)
無表情に美春は思い捨てた。
「そんな、頑なにならなくても」
(違う。あなたはもう縁の力を失ってしまったんでしょう? それは決して軽くないんじゃないの?)
「――」
真正面から問い掛けられて依子は息が詰まった。
それは――その通りだった。生まれた時からそれがあるのが当たり前で、今ここにないというのは、強烈な違和を感じて、
何より、怖い。
感覚を失うということがこんなにも怖いとは思わなかった。この一週間そ知らぬ顔をしながらも、ずっと不安だった。
だが、
「……うん、それは確かにそうだよ。でも、何かを失ったわけじゃなかった」
(……え?)
「周りは何も変わっていないよ。友達は普段と同じように接してくれるし、家族は昔と同じように温かい。大切な人たちはみんな変わってないの。変わったのは私だけ」
(……)
「……ううん、本当はみんな変わっていくのかもしれない。でも私はそれに気付かないし、周りも私の変化に気付いて変わるわけじゃない」
(……)
「私がどう受けとめてどう呑み込むか。たぶん……大事なのはそれだけだと思う」
何かが変わるということは、それほど特別なことではない。いつだって世界は変化し続けているし、永遠に続くものなど、ない。
力を失ったこと。それは決して依子の存在や意味を否定するものではないし、うつろいゆく日常の1ページにすぎない。
みんなあらゆる変化の中を生きている。失いたくないものもあるだろうし、失ってしまった者もたくさんいるはずだ。それでもそれを受けとめて生きている。
依子はこれからも生きていくのだ。ならばきちんと受けとめて、日常を歩んでいかなければならない。不安でも、怖くても、生きる気があるなら進まなければならない。
そしてその中で、大切なものを見つけていくことこそが大事なのだと思う。それは変わらない何かかもしれないし、変わってしまった何かかもしれない。
その大切なものが、自分にとっての確かなものになるのなら、不安や怖さを乗り越えられるのではないだろうか。
「もう起こってしまったことを変えることはできないよ。私にできることがあるとしたら、『頑張る』、それだけだと思う」
美春は無表情に思念を飛ばした。
(当たり前のことを当たり前にする……それが一番大事ってこと?)
「地道にまっすぐ進むことでしか人は生きていけないと思うの。劇的な何かを期待してもいいけど、それで何もしないわけにはいかないでしょ」
そして依子は、にこりと微笑んだ。
自分にできることを精一杯するのだ。そうすれば少しは、周りの人たちに何かを返せるかもしれない。
姉にも、きっと。
(そんなこと考えてたのね……)
美春は感心したように囁いた。
「あ、違うの。ずっとこんな考えを持ってたわけじゃなくて、さっきなんとなく思ったことなの」
(……そうなの?)
「美春さんが来るまでずっとうじうじ悩んでた。でも美春さんに会って、ふっきれたというか」
ちゃんと縁は繋がっている。これまでにやってきたことが水泡に帰したわけではないことを再確認して、これを途切らせてはならないと思ったのだ。
「だから、実はちょっと思い付きで言ったところもあるの。ごめんね、偉そうなこと言って」
そのとき、美春が優しげに微笑んだ。
綺麗な笑顔に不意を突かれ、依子はどきりとする。
(強いのね、あなたは)
「……そ、そんなことない、けど」
(でも、もう少し肩の力を抜いてもいいと思う)
「え?」
生霊の少女は笑みを収める。
(さっきから気になってた。無理して明るく振る舞ってるみたいだけど、本当は元気ないのかも、って)
「…………」
依子は言葉を失う。見た目は少女でも中身はずっと大人なのだろう。その鋭敏さは脱帽ものだった。
「かなわないなあ……」
(何かあった?)
依子はごまかし笑いを浮かべながら髪を撫で上げた。
「うん……なんていうか、私は恋愛には向かないなぁ、って話」
(……色事?)
「や、そんなんじゃなくて、ちょっと迷ってるというか」
うまく言えなくて、依子は悩ましげにポニーの黒髪を揺らす。