部屋の襖を閉めて隅の暖房ヒーターのスイッチを入れると、依子は行儀悪く畳に寝転がった。
どっと疲れが出て全身に広がっていく。天井に向かって大きく息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じた。
誰かが前に言っていた。
「お前には誰かいるのか?」と。
いる。依子には大切な人たちが。才能がなく、力も失った自分を支えてくれる、大切な家族。
それは、依子が縁視によって誰かを手助けしていたのとは違うのかもしれない。
それでも依子は救われた。それの一番はやはり姉なのだろう。姉がきっかけを作ってくれたからこそ、依子はここに戻ってこれたのだから。
なのに、自分には何も返せない。
そんな自分にできることがあるとすれば、
思考を巡らせるうちに、依子の頭はゆっくりと眠りに落ちていった。
夢は、見なかった。
◇ ◇ ◇
「……?」
自室の布団の上で体を休めていた神守依澄は、不意に違和感を覚えて顔を上げた。
外の方で何か妙な気配がするのを感じ取った。外と言っても近くではなく、屋敷から三キロメートルは離れているようだが。
この緋水の土地では依澄の感覚は文字通り『神懸る』。
普段なら絶対に捕捉できない距離だが、土地神の力が憑依するこの地では、依澄の霊感は極限まで研ぎ澄まされるのだ。
依澄は気配の位置を正確に捉えるために意識を集中させた。
「……」
少しだけ驚く。
対象は魂が何にも守られていない、剥き出しの状態のようだ。しかし明確な意思を持たない脆弱な霊とは違い、動きは知能の高い生物のそれである。
珍しい。生霊がこの地に来るなんて。それも二人も。
悪意は見られないので悪い相手ではなさそうだ。むしろ魂の質は優しい感触を受ける。
なぜかこちらに向かっている。
ゆっくりながら、確かにこちらを目指して来ている。何の用だろうか。少なくとも依澄に心当たりはない。
「……」
屋敷の周囲には結界が張ってある。こちらから招かない限り侵入される心配はない。
依澄は迷う。対処すべきかどうか。放っておいても問題はなさそうだが。
しばらく様子を見よう。依澄は相手の位置を捕捉したまま、再び横になって目を閉じた。
居間の方では両親が守と話をしているようだ。
そして依子は、自分と同じように休んでいる。
「……」
魂が昨日よりもブレている。心が不安定なためだろうが、何か心配事を抱えているのだろうか。
依澄は体を休めながら、意識は一切休まずに周りに気を配っていた。
何かあれば、いつでも飛び出せるように。
◇ ◇ ◇
声が、聞こえた。
瞬間、依子は驚きのあまり飛び起きてしまった。
「え……?」
周りを見回す。
高い天井に小さな卓。暖房の音は微かで、障子の向こうからしとしとと音が聞こえる。雪が降っているようだ。
何も気にするようなものはない。
(夢だったのかな……)
人はいつも夢を見ているというが、必ず覚えているわけではない。今の依子に夢の記憶はなかった。
ただ、声が聞こえた気がしただけで。
知った声だった。
それに気付いた瞬間、依子ははっとなった。
なんとなく、もう会うことはないのだろうと思っていた。なのにその声を聞いたというのは、不思議な縁を感じる。
(そうか……)
縁を見る能力がなくなったからといって縁そのものがなくなったわけじゃない。
たぶん彼女とはまだ縁が繋がっているのだろう。
あんな別れ方をしたために中途半端になっていたが、心の隅でずっと気になっていた。
(……力はなくなっても、縁は残ってるんだね……)
少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。
それが今の自分なのだ。
「……」
声が聞こえたということは近くに彼女がいるということだ。なぜ彼女がこの地にいるのかはわからないが。
依子は立ち上がると、ハンガーにかかったコートを取り、素早く羽織った。
そして暖房のスイッチを切ると、部屋を出て玄関へと向かった。
◇ ◇ ◇
その頃守は、緋水夫妻と居間で話をしていた。
依子も依澄も疲れたのか、自分の部屋で休んでいる。夕食までまだしばらくあるので、守は昭宗と火梁に対する愚痴などで盛り上がっていた。
そこに夕食を作り終えた朱音も加わり、三人で談笑していたのだが、途中から朱音が昔の話を始めた。
それは、依子の話だった。
朱音が依子にどんな気持ちを抱いているのか、どれだけ依子を大事に思っているのか、その話からはっきりとした愛情が伝わってきて、守は嬉しくなった。
依子は愛されている。周りにとても恵まれ、大事にされている。
だが依子は、それを素直に受け取ろうとしないところがある。
その理由はわからないが、守はそれが嫌いだった。依子は幸せになっていい人間だし、幸せになってほしいと思う。できることなら自分の手で幸せにしたいと思う。
好意を受け取るのを怖がらないでほしい。それをわかってほしいと切に思った。
「……あれ?」
玄関の方で音がした。足音と、扉が一旦開いてすぐに閉められる音。
「……依子ちゃん、かな」
守の鋭敏な聴覚は靴音の微妙な差異を聴き分けた。依澄の草履の音ではなく、スニーカーの軽い靴音だった。
時刻は七時。外はもう真っ暗だ。加えて雪もちらほらと降り始めているようで、外に出るのは少々危ないだろう。
「ちょっと見てきます」
守が言うと、朱音はにっこり笑ってひらひらと手を振った。
「帰ってくるまでにご飯並べておくから。りこちゃんをよろしくね」
そして立ち上がろうとした昭宗の腕を掴み、台所へと引きずっていく。
「あっくんは手伝い」
「いや、私も依子が心配、」
「『盾』は主に逆らっちゃダメ。それに、まーくんに任せとけば大丈夫よ」
「……」
ずるずる連れていかれる昭宗に、守は苦笑を浮かべた。
「すぐに戻りますから」
守はそう言うと、少しだけ速い足取りで玄関へと向かった。