◇ ◇ ◇
布団の敷かれた客間で、守は一人考え事をしていた。
昼間、依子が言った九年前のことを思い出していたのだ。
あのとき依子は言った。
――わたし、マモルくんのこと好きだよ。
あのときはまだ依子より依澄の方が好きで、守は彼女を妹としか見てなかった。
だから守は言ったのだ。ありがとう、と。
あれは誤魔化しの言葉だ。稚拙な想いをうやむやにする、卑怯な言葉。
依子は続けて言った。
――あとね、お姉ちゃんのことも好き。だからずっと、三人いっしょにいたいな。
依子自身もあまり憶えている様子ではなかったが、言葉だけ捉えると親愛の告白のようだった。
だがもし、あれが恋愛の告白なら、
(先に告白されてたんだな、ぼくは)
あるいは機を逃したのかもしれない。守はつい苦笑した。
依子のことを好きになったのはそれから五年後のことだ。
高校に通うために神守市内で一人暮らしを始めて、そして久しぶりに会ったいとこの少女に、守は次第に心を奪われていったのだ。
小学生から中学生になって、可憐さに磨きがかかっていくにつれて、さらに想いは強くなった。
理由があるかと問われると、はっきりとは答えられない。
強いて言うなら、依澄よりもずっと人間味があって、輝いて見えたためだろうか。
依澄はしばしば超然的な空気を漂わせていたが、依子はもっと等身大で、より身近に感じたのだ。
例えるなら、高い嶺に咲く花と、庭先に咲く花の違いだ。
前者は美しいが遠すぎて現実感がなく、後者は前者ほど美しくないが近くにいて安心させてくれるのだ。
守は後者の花を愛しく思い、守ろうと決めた。
いつか前者を守る立場に戻らなくてはならないと知っていても。
とんとん、と襖を叩く音がして、守は物思いを中断した。
顔を上げて襖を見やる。
「どうぞ」
襖が開いた瞬間、守は目を見開いた。
「……」
依子が顔を真っ赤にして立っていた。
パジャマ姿である。ピンクの布地は薄くはないものの、体のラインが普段着よりも幾分はっきりと表れて色っぽい。
うつ向いたまま依子は動かない。
守は小さく唾を呑み込むと、とりあえず声をかけてみた。
「あの、どうしたの?」
「……」
依子は答えず、恐る恐るといった調子で顔を上げた。
「……」
「依子ちゃん?」
「……は、話が、」
か細い声でそれだけ言うと、また口を閉じてしまう。
「とりあえず入って。廊下は寒いから風邪ひくよ?」
「……」
こくん、と頷くと、そそくさと襖を閉めて中に入ってきた。守は隅の座布団に手を伸ばす。
「あ、ここでいいから……」
依子は首を振ってそれを制し、既に敷かれた布団の上に腰を下ろした。
そのまま体操座りをする少女。脚線がより強調されるようで、守は思わず目をそらした。
「は、話って?」
「うん……」
訊いてみるものの、依子はなぜか話さない。
何度か逡巡して、何かを言おうとするのだが、またすぐ口をつぐんでしまう。
言いにくいことなのだろうか。それとももっと別のことか。
「……昼間はごめん」
先に話を切り出したのは守の方だった。
依子は不思議そうな顔をした。が、すぐに思い出したのか、また顔を紅潮させた。
「あ……その……」
「ご、ごめん。なんていうか、思わず……って思わずでやっちゃいけないんだけど、でもぼくは本気で、」
狼狽してうまく言葉がまとまらない。守は情けない気分になった。
「……ん。わかってる」
依子が頷いた。
守はいとこを見据える。依子は赤面したまま口をぎゅっ、と引き結んでいる。
「……」
「……」
沈黙。
長い静寂だった。暖房の音がぼう……と静かに鳴るだけの室内で、二人はぎこちなく固まる。
どれだけそうしていただろうか。おそらくは一分も経っていないだろう。
だが守には永遠にさえ思えた。この瞬間で全てが止まっているとさえ感じた。
うつむいたまま視線を合わせないでいると、依子が微かに身じろぐ気配が伝わってきた。呼吸のための胸の収縮が、空気を揺らすようだった。
「……お母さんが前に言ってた」
ぽつりと漏らすように、依子は言った。
「私の名前、依子の『依』にはいろんな意味と思いをこめたんだ、って」
「……それは」
守は顔を上げる。
「たよる、とりつく、よりかかる、意味だけ並べると随分悪いイメージだけど、そうじゃないんだって」
「……」
「いいよりどころを持てるように、そして誰かのよりどころになれるように、そんな意味を込めてこの名前にしたんだ、……って」
「……」
守は頷く。それはさっき、夕食前に朱音から聞かされていた話だった。
依澄のときにも同じ理由でその漢字を使ったという。『子』の字をつけたのは子年だったかららしい。
朱音は楽しそうに話していた。
『よりどころっていうのは特別なものじゃないの。ちょっとだけ自分を支えてくれる、ささやかな宝物みたいなもの。私は子供たちにそれを見つけてほしいなと思って、名前をつけたのよ』
ちなみに私のよりどころはすみちゃんとりこちゃん、おまけであっくんね。そう言って彼女は笑っていた。
伯母の顔は穏やかで、娘への深い愛情に満ちていた。
それもきっと特別なことではない。二人を見ていればわかる。それは、朱音がとても依子を愛していると、ただひたすらに当たり前のこと。
当たり前に、大切なこと。
「私は――依子。特別な力なんて何も持たないけど、私は私。これまでも、これからも、それは変わらない」
「……うん」
「一つ一つやるべきことをこなしていって、ずっと生きていくよ。それはたぶん、みんな同じだと思うから」
「うん」
そこで依子は顔を上げ、守を見つめた。
「マモルくん」
「う、うん」
まっすぐ見つめられて、守は少しだけ落ち着かなくなった。
「私ね、マモルくんはお姉ちゃんといつか結婚すると思ってたの。だからマモルくんはいつまでも私の兄で、私もずっと妹だと思ってた」
「……」
「でも、それはもう違う。九年前のあやふやな想いとも違う。私はよりどころを定めるために、今の答えを怖がらずに出さなきゃならないの。だから、言うね」
そして、依子は紅潮した顔をぎこちなく笑顔に変えて、懸命な調子で言った。
「大好きだよ、マモルくん……誰よりも、何よりも」
その言葉は胸に染み込むように、じわりと心に浸透した。
九年前とは違う、明確な愛情を持って放たれた言葉。
今の彼女が出した精一杯の答えに、守は嬉しさのあまり卒倒しそうだった。
だから、
「……」
守は無言で目の前の想い人を抱き締めた。
「っ、」
驚いたように身を固くする依子。
力一杯抱き締めたりはしない。ただ彼女の温もりを感じていたかった。
少女の体から少しずつ固さが抜けていく。しばらくして、体操座りを崩した依子の手が、守の背に回された。おずおずとした手つきだった。
「ぼくも、大好きだ」
「……」
間近にある頭がこくりと頷いた。