BACK INDEX NEXT

縁の切れ目 言霊の約束・10


          ◇     ◇     ◇

 屋敷に戻った依子と守は食卓で温かい料理に出迎えられた。
 羊肉ステーキにほうれん草と人参のソテーを添え、ミートボールとトマトのスープ、二種類のサラダが脇を彩る。デザートにフルーツの盛り合わせが並ぶ。
 朱音は帰ってきた二人ににこやかな笑顔を振り撒くと、すみちゃんももうすぐ来るからちょっと待っててね、と言った。
 濡れた髪を拭き終わる頃になって、依澄が姿を現した。
 依子はつい気を張りそうになったが、美春の言葉を思い出して小さく息を吐いた。
 肩の力を抜く。それはたぶん、いつもの、当たり前の依子でいろということなのだろう。
 難しいことではない。本当に、ただの依子でいればいいのだ。
 この世界で、ただ一人の人間として、唯一の自分として。
 やがて全員が卓につき、にぎやかな夕食が始まった。


 食事を終えて依子が一息ついていると、向かいに座る依澄が言った。
「お風呂、一緒にどうですか?」
 依子は意表を突かれて目が点になった。
「あ……うん」
 なんとなく頷くと、なぜか依澄はにっこり笑った。
 こちらが驚いてしまうくらい嬉しそうな顔だった。


 緋水家の浴場は広い。
 浴室ではなく浴『場』という時点でそれはもう間違いない。実際に目にすれば、浴場から『大』浴場に格上げしたくなるほどの広さだ。
 これもやはり大人数がいた頃の名残だった。昔は真ん中を壁で仕切って男女別に分けていたらしいが、今はもう壁も取り除かれている。
 掃除が大変だが、そこはお手伝いに任せている。ちなみに現在緋水家が雇っている使用人は三人で、主に掃除担当である。
 その広々とした浴場の隅で、依子は依澄に髪を洗ってもらっていた。
 熱気のこもった浴場には二人しかおらず、シャワーの音がやけに虚しく響く。
 依子はちょこんとイスに座り、背後の姉に任せる。
 依澄は依子の黒髪を優しげな手つきで撫でると、シャワーですすいでいった。それから手の平にシャンプーを泡立て、丁寧に洗い始める。
「依子」
 ごく自然に名を呼ばれた。それに対して依子は流されるように声だけを返す。
「なに?」
「守くんのこと、好きですか?」
 心臓が止まりそうになった。
「なっ……!?」
 振り返ろうとする依子の肩を、依澄は両手で押さえ付ける。
「動かないで下さい」
「……うん」
 織物を織るように、依澄の手つきは繊細に動く。
 くすぐったい感触が心地よい。わしゃわしゃという泡立ての音が耳に響いた。
「……私は好きです。昔から、ずっと」
 囁くように、依澄は言った。
「たぶん初恋で……今も変わらないです、それは」
「……」
「でも私は彼を選びません」
「……どうして?」
 依子の問いに、依澄は答えなかった。
 依澄が蛇口を捻り、再びシャワーからお湯を出す。
 温かいお湯を髪にかけられて、依子は体をすくませた。目をつぶってじっと動かずにいると、泡とお湯が体を流れていくのが感じとれた。
「彼はあなたを選んでいますから」
 シャワーの途切れと共に、依澄が囁いた。
 数秒の間。
「……それだけ?」
 依子の確認に依澄は頷く。
「でも、好きなんでしょ?」
「……」
「なのに諦めるの?」
「……諦めるのとはちょっと違いますが……そうですね」
 その淡々とした返しに、依子は悲しくなった。なんでこの人はこんなにも執着がないのだろう。
「なんで……どうしていつもそうなの?」
「……?」
「ずっとそうじゃない。昔から、なんでも簡単に私に譲って、なんにも我が儘言わなくて、人の頼みを断らなくて、そんなの……」
 好きなおもちゃも、お菓子も、お洋服も、依澄は人が欲しがれば簡単に譲った。
 ものだけじゃなく、心さえそうだった。常に周りに気を配り、自分のことは二の次。いつも自分は後回しで、そっちのけだった。
「少しは自分を大切にしてよ……執着を持ってよ……私は、お姉ちゃんに幸せになってほしいのに……」
 口が震える。言葉を募らせるうちに涙が溢れてきて、やがて止まらなくなった。
 依子の願いはそれだけなのだ。自分ばかり幸せになるなんて、そんなのは間違っている。
 もしかしたらこの世で一番優しいかもしれないこの人が、どうして幸せになれないというのか。そんなこと、許せるわけ、
「……私は幸せですよ」
「……え?」
 とめどなく流れる涙の中、依子は姉の言葉にぼんやりと顔を上げた。
 目の前の鏡に、依澄の微笑む姿が映っている。
「家族がいます……好きな人がいます……こんなにも愛してくれる大切な妹がいます」
「……」
 その言葉はさっき美春が口にしたことと重なるようで、依子は奇妙な既視感にとらわれた。
「それに……私の何よりの望みは、『他の人たちの幸せ』なのですから、私自身が恵まれても、それは私の幸せにはなりません」
「……どういう意味?」
「私は、自分に執着を持つことが『できない』んです」
 さらりとした調子で、依澄は言った。
 依子は押し黙った。
「……そういう性質なんです。まったく執着がないわけではありませんが、他人と自分を天秤にかけたら、他人を優先してしまう。それは変えようがないし……変える気もありません」
「……マモルくんが欲しいとは思わないの?」
「あなたを悲しませてまで欲しいとは思いません」
 けれんみなど微塵もない言葉。
 依子は何も返せず、ただうなだれた。
「でも……私は……」
 不意に温かい感触が背中いっぱいに広がった。
 依澄が依子の体を背後から抱きしめたのだ。
「お、お姉ちゃん!?」
 いきなりのことに依子は頓狂な声を上げた。
 細腕が強く体を締め付けてくる。痛くはなかったが、乳房の柔らかい感触と肩越しに頬にかかる吐息が密着を明確に感じさせ、ひどく気恥ずかしくなった。
「……最初、あなたに会いに行くのが怖かったんです」
「――え?」
 意外な告白に依子は目を丸くした。
「恨まれているかもしれない。そうでなくても会いに行ったりしたら、あなたに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。そう思うと……怖くて仕方ありませんでした」
「……」
 それは少なからず驚きだった。ほとんど完璧とも言える姉が、そんなことを思っていたなんて。
「……でも、私の恐怖よりもあなたの不安を取り除く方が大事でしたから、私はあなたに会いに行きました。……行ってよかったと思っています」
 依澄は諭すように耳元で囁く。
「私はそうしたいからそうしました。あなたもそうしてください。だから――答えて。守くんのこと、好きですか?」
 真摯で真剣な問いに、依子は咄嗟に答えられなかった。
 だが、ひょっとしたら、もう心の中では決まっていたのかもしれない。
 拙く淡い答えが、七歳の頃から。
 依子は高揚する胸を押さえて深呼吸した。
「……好きだよ。たぶん、もうずっと前から」
 依子にとって、守は兄だった。なぜならば、姉が好きになった相手だったからだ。
 二人が結婚すれば、守は自分の兄になる。幼いながらそんな知識と認識があり、依子はずっとそれを受け入れてきたのだ。
 だが、本当に心の奥底では。
「好き。マモルくんが大好き。ずっといっしょにいたいくらい大好き」
「……」
 依澄は腕の力を緩め、体を離した。
 依子は体ごと振り返って姉に向き直る。
 顔を見ると、微笑ではなく、はっきりと深い笑みを湛えていた。
「今のはなかなか可愛かったですよ、依子」
「……へ?」
「肩の力も抜けてますし、あなたの素が出てました。それでいいんです」
「……」
 美春と同じようなことを言う。
「あとは、彼に伝えるだけですね」
「え?」
「告白して、キスの一つでもしてあげたらどうですか?」
「な……」
 依子は絶句して、息を呑む。昼の、川辺での出来事を思い出して、思わず赤面した。
 茹で蛸のようになってしまった依子に依澄が首を傾げる。
「……ひょっとして、もう済ませてしまいましたか?」
「な、何が!?」
 反射的に聞き返したが、依澄は無視してうんうん頷いた。
「……ならもうあとは一つしかないですね」
「……」
「今日は守くんも泊まっていくようですし、アタックしてみたらどうですか?」
「……」
 からかわれているのか、それとも本気で言っているのか、姉の言葉に依子は困り果てた。どう答えろと。
「今日は随分饒舌だね……」
「あなたと話せて嬉しいからですよ」
「からかわれてばかりじゃおもしろくない……」
「いえ、結構本気です」
 存外に強い声だった。
「依子次第ですけど、好きな人に抱かれるのも悪くないと思います。それとも、怖いですか?」
「……」
 急にそんなこと言われても、と依子は困惑した。
 少し想像する。
 数秒後、恥ずかしさに思わずうつむいた。
 だが、あまり嫌な気はしなかった。
「勇気が持てないなら後押ししますよ?」
「……」
 依子は白い湯気の真ん中で高鳴る胸に倒れてしまいそうになった。

BACK INDEX NEXT