(依子ちゃん……)
想い人の名を呟いたのは本当に無意識のことだった。脳に侵食してくる何かを振り払いたくて、必死に抵抗を試みた末にたまたま出てきただけにすぎない。
瞬間、頭の中が急速に晴れた。
体を離した依澄が顔面蒼白になっていた。
守は何がなんだかわからず、体を起こしてぼんやりと依澄を見やる。
「わた、し……なんてことを……」
依澄は悲壮な声を漏らすと、その目に大粒の涙が浮いた。
今日一番の驚きだった。
依澄が泣く姿を見るのは初めてだった。昔から感情を露骨に見せたりしない彼女は、人前で涙など絶対に流さなかった。
それが、今、顔を歪めて泣いている。
またも理由はわからないが、ほっとくことも出来ないので守はおそるおそる尋ねる。
「どうしたの、依澄さん?」
「……、……」
声を抑えて泣き続ける依澄。
守は何も出来ずにしばらくおろおろしていた。こういうとき、男は女にどんな言葉をかけてやるべきなのだろう。
結局、じっと見守ることしか出来ない。
涙が治まってきたようで、依澄がゆっくりと口を開いた。
「……言霊なんて使うつもりはなかったのに、使ってしまいました……ごめんなさい」
「……え?」
言霊を、使った?
思い返す。ではさっきの感覚は、彼女の、
「抱いてもらいたいのは本当です。でもそれはきちんと頼み込むつもりでした。なのにあんな──」
彼女の声には自らを責める思いが混じっていた。
『言霊』とは一般的に言葉に宿る霊力のことを指す。神守でもそれは同じだが、依澄の言う言霊とは、もう少し狭い意味合いを持つ。
依澄の放つ言霊は、自身の感情を乗せることが出来るのだ。
普通の人間にもある程度それは出来るが、彼女の言霊は桁違いだ。なぜなら、相手の心に直接自分の感情を侵蝕させるほどの力を持つからだ。
──わかりやすく言うと、『強制的に相手を従わせる』といったところだろうか。
圧倒的な霊力を乗せて感情をぶつける。すると相手はその感情にあてられて、自らを保てなくなる。
狂おしく愛せば相手は自分のみに溺愛し、激烈な殺意を抱けば相手は即座に自殺する。それをただ言葉のみで成しえてしまう。
相手の意思を魂レベルで操る。それが彼女の言霊だった。
普段彼女が滅多に口を開かないのもこのためだ。感情が乗らないように制御することは可能だが、決して自由自在ではないので、人との会話は特に気を付けている。
誰かを魂ごと操るなど、相手の尊厳を奪う行為だから。神守の当主として、やってはいけないことだから。
彼女にとって、その戒めはとても重要なものだった。
なのに、
「あなたが依子を好きだということは知っています。それに嫉妬していたのかもしれません。……いいえ、それは関係なくて、ただあなたを自分のものにしたいだけだったのかもしれません」
「……」
黙って聞く。今は言葉をうまく操っているようだ。
「でも、そんなの許されません。誰であっても、ましてや守くんになんて……」
「……」
沈黙の帳が下りた。
依澄はうつむいて動かない。ひどく落ち込んだその様子は儚げだ。
守はそれをただ見つめる。
胸が強く高鳴っている。不思議なくらいに気持ちが揺さぶられている。
手を伸ばした。
「あ……」
そのまま彼女の右手に重ねると、その口から息を切るように短い声が漏れた。
守は一つだけ尋ねた。
「ぼくに抱かれることが、今、君に必要なことなの?」
依澄は赤く腫れた目をぼんやりとさまよわせたが、やがて小さく頷いた。
それを見て守は微かに笑む。
「……ありがとうね」
依澄は唖然として固まっていた。
「なんでそれが必要なのかわからないけど、ぼくを頼ってくれてるんだよね」
「……」
「それは、ちょっと嬉しいかな。依澄さん、誰かに頼ることないから」
「……でも、私は守くんに言霊を……」
「気にしてないよ。というか、いいんじゃない? たまには」
信じられないとでも言いたげに目を見開く依澄。
「言霊って、依澄さんの感情が素直に出てるわけだから、いいことだと思うよ。誰だって感情でものを言うのに、君だけそれが出来ないなんて、そんなのあんまりだよ」
「……」
「それに、今の依澄さんはすごく綺麗だから」
守は涙で崩れた顔を見つめる。
美しい顔が台無しだった。だが、今の彼女の方が魅力的だと思った。普段の人形のようなたたずまいより、ずっと人間味を感じる。
「……」
「……」
また、沈黙。
守はつい目を逸らす。恥ずかしい台詞を続けたせいで、どうにも視線を合わせづらかった。しかし、こうやって静かな時間が流れるのも気まずい。
「……」
依澄は何の反応も見せない。
結局、先に折れたのは守の方だった。
「あの、さ」
「……?」
「依澄さんは、ぼくのことが好きなの?」
「……」
一瞬、躊躇するように目を逸らした。が、やがてこくりと頷いた。
たまらなく可愛く見えた。
ごくりと生唾を呑み込む。
「依澄さん」
呼び掛けに答えるのを待たず、守はすっ、と動いた。
彼女の細身を一気に引き倒し、間髪入れずに覆い被さった。
「──!?」
予想外だったのか、依澄は呆気に取られている。
「抱きたい。依澄さんをぼくのものにしたい」
素直に自分の欲望を吐露する。
依澄は少しだけ目を細める。
「な、なに?」
「依子が怒るかもしれませんね」
不意打ちの言葉に激しく狼狽した。
「え……ええっ!?」
「……スケコマシ?」
「い、いや、それは、」
似つかわしくない単語を投げられて、急激に冷や汗が流れる。焦りで言葉がうまく出ていかない。
「……冗談です」
面白そうに、依澄が意地悪く笑う。
「二人だけの秘密にしましょう……今日だけですから」
「……了解」
自分はひょっとして女に勝てない性質なのだろうか。依子にも静梨にも、依澄にも勝てる気がしない。
依澄の澄んだ目が守を優しく射抜く。
吸い込まれるように顔を寄せ、守はそのみずみずしい唇にゆっくりと口付けた。
微かに花の香りがした。