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縁の傷 沈黙の想い・6


 午後八時。
 日の光は完全に地の向こうに消えている。窓の外は真っ暗で、仄かに街灯の光が射すだけだ。それさえもカーテンに遮られ、室内を照らすのは真新しく白い蛍光灯だった。
 いつもは一人の、守の部屋。
 その空間に今、失語の少女が座っている。
 イタリア料理店で夕食を済ませた後、守は静梨の要求に応えて自室へと誘った。
 タクシーで移動する間、二人は何のやり取りもしなかった。口もメモ帳も開かず、ただ車の揺れに身を任せていた。
 そして、今。
 静梨はベッドに腰掛けながら、両手でスカートの一片をぎゅっと握り締めている。
 守は困惑気味に頭を振る。何でもするとは言ったものの、何を望まれているのかわからない。守にしか出来ないことというのは何なのか。
「静梨ちゃん……?」
 名を呼ぶと、少女は文字を綴り始めた。
 差し出された紙に、守は息を呑む。
『今日、泊めて下さい』
 何を考えているのだろう。あんな事件があった後で、信じられない要望だった。
「……どうして?」
 怪訝な表情でつい強く問いかけた。静梨は口を真一文字に結んで動かない。
「……家に連絡入れるよ。どっちにしろ、昌子さんが心配するから」
 微かに静梨の体が震えたが、守は構わず電話を入れた。
 コール三回で祖母は出た。
『もしもし』
「あ、昌子さん。こんばんは。ぼくです、遠藤です」
『遠藤さん? いつも静梨がお世話になっております』
 声質は柔らかく、慇懃だった。しかしその裏には、孫への心配が見え隠れするようで、守は心底申し訳なく思った。
「すみません。こんなに遅くまで」
『いいえ、大方静梨が我が儘を言ったのでしょう? 御迷惑をおかけしてごめんなさい』
「あの、実はそのことなんですが……」
 言いかけたところで、横から何かが耳元に迫った。
 静梨の右手が携帯電話を引ったくった。守はいきなりのことに反応出来なかった。
 そして、
「お……ばあちゃん……」
 守は静梨に何かを言おうとして、固まった。
 喋った……?
 電話の向こう側からも、驚きの気配が伝わってくる。
「わたし……きょうは……かえ、らない……から」
 初めて聞いた声は、何かに耐えるように苦しげだった。
 守の目は少女の姿に釘付けになる。
「おねがい……この……きかいを、のがし……たく、ないの……」
 少女の双眸に涙が浮いている。
「うん……だい、じな……こと……から」
 しかし、その目は何かの決意に支えられているようで、強い光を宿している。
「うん……かわ、るね」
 筐体が耳元から離れた。その手からそのまま携帯を返される。
「もしもし?」
『遠藤さん。あの静梨を……』
「え?」
『遠藤さんがよろしければ、今夜静梨をお願い出来ますか?』
「な……何をおっしゃってるんですか。そんなこと、」
『一ヶ月ぶりだったんです。あの子の声を聞いたの』
 思わず口をつぐんだ。
『このままずっと喋れないままなんじゃないか、何度もそう思いました。でもさっき、あの子の声を聞けて思ったんです。遠藤さんなら、あの子の笑顔を取り戻せるんじゃないかって』
 それは盲信なのではないか。口には出さないが、内心で呟く。
『あの子にはあの子なりの考えがあるんだと思います。だから、少しだけあの子の話を聞いてあげてほしいのですが……どうでしょうか』
 すぐには答えられなかった。
 目を瞑り、しばらく黙考する。
「…………」
 まぶたの裏に映るのは、先程の静梨の強い目の光。
「……わかりました」
 守は承諾した。
「明日の朝には必ずそちらに送り届けますので、一晩だけ静梨さんをお預かりします」
『ありがとうございます。静梨を……よろしくお願いします』
「はい」
 はっきりとした返事を出し、守は通話を切った。
 そして、床にへたりこんだ静梨に向き合う。
「静梨ちゃん」
「言いたいことはわかってます……なぜ喋れたのか、ですね?」
 静梨の声は先程よりも明瞭になりつつあった。守は頷く。
「あなたがいっしょだからですよ……」
「……え?」
 予想外の答えに間の抜けた声が漏れた。
「あの日……私は二人の男に襲われました。目隠しをされて、場所もわからないまま、相手の顔も見えないまま、その……お、犯されて……」
 声に苦しさが混じる。静梨は我慢して続ける。
「抵抗したら殴られました。暴れたら蹴られました。痛くて、苦しくて、すごく……怖かったです」
「……」
「私、途中からずっと黙ってました。泣きながら、それでも声を殺してました。どうしようもないくらい汚されましたけど、声を出したらもっと酷いことされるから」
「……」
「気付いたら、声を出せなくなってました。口がいうことを聞かないんです。怖くて、怖くて……」
 声が微かに震えている。守は静梨の肩に手をやり、無理しないでと囁いた。大丈夫、と静梨はさらに言葉を紡ぐ。
「でも、守さんがそれを救ってくれました。少しずつですけど、恐怖が薄らいでいったんです」
「……」
「さっき、観覧車の中で言ってくれた言葉、多分あれが一番効きました。あれで完全に、恐怖と向かい合えると思いましたから」
「……」
「あと一つです。声も取り戻せました。笑顔も今なら自然と出ると思います。あとは……温もりです」
「……温もり」
「恋も、愛も、誰だって抱きます。異性に体を許すことだってします。なのにあんな……あんな人達のせいで人の温もりを『怖いもの』だなんて思いたくありません!」
 魂からの叫びだった。ずっと奥底に溜めていた思いを、恨みを、憎しみを、悲しみを、全て吐き出すような精一杯の咆哮。
 静梨は泣きながら必死で訴える。
「だから、一番大切な人から温もりをもらいたいんです。守さん、あなたから」
 零れる涙の雨の中、少女は美しく微笑んだ。
「大好きです、守さん。あなたを誰よりも愛しています。だから、私をどうか抱いて下さい」
 少女は自身の心を込めて、愛と願いの告白をした。
 守はその真剣な言葉に、ごくりと唾を呑んだ。
 重かった。
 しかし逃げるわけにはいかなかった。
 自分はこの少女に言ったのだ。出来ることならなんでもすると。ならば、受けてやるべきだ。
 たとえ、この少女を愛せなくても。
「……わかった」
 守は静梨を真正面から見つめる。
「でも、ぼくは……」
「言わないで。わかってますから」
 唇に指を当てられ、守は戸惑う。
「え?」
「あなたの目が他の人に向いてることはちゃんとわかってます。わかってて告白したんですから、あなたの本当の答えもわかってます」
 少しだけ淋しそうな笑み。
「でも今日は……今日だけは私を愛してくれませんか? 今夜だけ、あなたの心を私に下さい」
 ずっと聞きたいと思っていた声が耳を打つ。
 ずっと見たいと思っていた笑みが目に映る。
 それは恋ではなく、親愛の類だった。それでも青年は青年なりに、少女のことを愛していた。
 守はひざまずき、少女の体を優しく抱き締めた。
 静梨はとても幸せそうに、青年の胸に体を預けた。

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