天気は相変わらず快晴だった。
十時に駅前という約束だったので、守は十分前に着くようにした。
しかし、そこには既に静梨の姿があった。
長袖ブラウスにロングスカート。薄い生地だが露出の少ない服装だ。ショートの髪を綺麗にピンで留めて、少し大人っぽく見える。
若干季節に合わない服装だが、あんな事件の後では人目に肌をさらしたくないだろう。スカートさえ着るのを躊躇ったかもしれない。
殊更に元気な声で、守は話しかけた。
「早いね。ひょっとして待たせちゃった?」
静梨は首を振り、メモ帳に返答を載せる。
『楽しみで早起きしちゃいました。でも今来たところですよ』
笑顔はないが、うきうきした雰囲気は伝わってくる。守の顔に自然と笑みがこぼれる。
「じゃあ行こうか」
が、歩き出そうとしたところで、袖を引っ張られた。
静梨のメモ帳に新たな文が記されている。
『手を繋いでもらってもいいですか?』
守は目を丸くした。少女はうつむいて、身を固くしている。
素直に可愛いと思った。
袖を掴んでいた手を取り、優しく握ってやる。静梨がばっ、と顔を上げた。
「行こう」
その言葉に、少女は顔を赤くして頷いた。
市街地の端にある遊園地は、夏休みということもあって家族連れが多かった。
静梨がコースターに乗りたいというので、最初はそれに乗ることにした。なかなかの人気らしく、結構な列が出来ていた。
待つ間、守は天空にそびえる異形の遊具を見上げた。人を乗せた鉄の塊が高速で動きまくっている。いや、材質が鉄かどうかはわからないが。
『怖いですか?』
横合いからメモ帳が割り込んできた。横を向くと、静梨が気遣うような表情を向けてきていた。
「そういうわけじゃないけど……いや、やっぱり苦手かな」
それを聞いて再びペンが走る。
『私がついてます! 怖かったらしっかり私の手を握っていて下さい』
その文面に守はつい笑った。
静梨が少しむっとした顔をする。軽くにらまれて、慌てて弁解した。
「ありがとう。守ってくれるんだ?」
そうですと言わんばかりに勢いよく頷く。
列が前に進み、二人の番が回ってきた。
静梨に引っ張られるように守はコースターに乗り込む。
繋いだ手にわずかに力がこもった。
暑い気温の中、その手の温かさは快く感じた。
死んじゃうって。マジありえないって。
コースターから降りて思わず守はベンチに座り込んだ。
静梨には悪いが、手の温度なんか一気に消し飛んだ。横を切っていく風の音や自殺ものの落下、竜巻のように回転する自分は間違いなくあの時死んでいた。
静梨は全くの余裕しゃくしゃくで、心配そうにこちらを見つめてくる。ごめんなさい、ヘタレでごめんなさい。
『少し休みますか?』
いきなりそれはないよな、と無理やり気合いを入れ直す。せっかくの退院祝いだ。頑張れ自分。
「大丈夫大丈夫。次行こう次」
その言葉を聞いて、静梨がペンを執った。
『次はあれに乗りたいです』
指先が示したのは、高速回転する巨大なシャンデリアだった。
『オクトパスグラス』という名のそれには、つり下げられた八つの円形台に固定シートがあり、外側に向かって人々が座っている。つり下げている中央の柱と、各台そのものが回転することで不規則な動きが生まれる代物だ。開発者の常識を疑う。
悲鳴が耳をつんざく。汗がめちゃくちゃ冷たい。
静梨は一見無表情だが、目の奥が期待で輝いていた。
「…………」
今日はもう死のう。ため息すら呑み込んで、守は歯を食い縛った。
時間が過ぎ去るのはとても早い。
時計は午後五時を回った。夏の太陽が沈むにはまだ余裕があるが、十分夕方と言える時間帯だ。
観覧車からオレンジに染まる直前の景色を眺めながら、守は今日一日を振り返った。
シャンデリアに振り回された。樽の中でローリングした。百メートル近い壁を垂直落下した。
遊園地というチョイスは静梨の要望だったのだが、正直なめていた。生きているのが不思議なくらいだ。
途中で入ったゲームセンターやお化け屋敷がなかったら、昼食さえ入らなかったかもしれない。
観覧車は心地よかった。少なくとも滑らないし落ちない。回転はゆっくりだし、揺れも微かなものだ。
『振り回してしまってごめんなさい』
静梨がメモ帳を広げて頭を下げた。
「静梨ちゃんが楽しかったならぼくは満足だから、そんなに謝らないでよ」
「……」
申し訳なさそうに小さくなる静梨。
そういう態度はやめてほしかった。静梨の笑顔を見たいのだから、そんな顔はしないでほしい。
それに、今から聞かなければならないこともある。
「ねえ、静梨ちゃん」
呼び掛けに顔を上げる。
訊きたいことがある、と言うと、小首を傾げた。
「森嶋君という子、知ってるよね」
静梨の顔が、心なしか強張ったような気がした。
観覧車が真上に差し掛かった。
「君は事件の時、彼と会わなかった?」
目が微かに揺れる。
しばらくの間の後、静梨はペンを執った。がりがりと強い音が響く。
『なんでそんなことをきくんですか』
漢字も、句読点も、クエスチョンマークもない冷淡な文だった。まるで、冷徹に心を閉じているような、色のない文面。
何かある。それを敏感に感じとる。
何がある? それを明確に問いただす。
「ぼくは彼が犯人なのかもしれないと疑っている」
自分の考えをはっきりと述べる。静梨は何を思っているのか、悲しそうに目を伏せた。
「彼が君に告白したことを聞いたよ。君は優しいから、彼に負い目を感じているんじゃないかって思っているんだ」
いやいやをするように頭を振る。聞きたくないように頭を抱える。
守はかわいそうに思ったが、覚悟を決めて踏み込んだ。
「君は彼をかばっているんじゃない? 彼が犯人と知っていて、それを誰にも言わないでいるんじゃ」
乾いた音が密室に響いた。
平手打ちが守の左頬に鳴ったのだ。
泣き出しそうな瞳で、静梨は守をにらみつける。
「……ぼくは、君を元に戻したい」
負けないように見つめ返すと、静梨は僅かに怯んだようだった。
「正直、森嶋君をどうこうする気はないよ。ぼくはただ、君の声を聞いてみたいだけなんだ。……でも、そのために何をどうすればいいのか、皆目見当がつかない」
それは紛れもない、守の本心だった。
声を聞きたい。笑顔を見たい。本心を知りたい。その思いは真剣で、真摯なものだ。
頬が熱い。その痛みは彼女の心の痛みのようで。
きっと、今なら理解出来ると思った。
「ぼくに出来ることならなんでもする。君の声を取り戻せるならなんでもやれる。だから、どうかぼくを信じてほしい。お願いだから、頼ってほしい」
傲慢な台詞だとわかっていた。何も出来ないかもしれないのに、何か出来るようなことをほざいている。
それでも構わなかった。はったりで彼女を救えるなら、いくらでも虚勢を張ってやろう。
不意に、静梨の手が伸ばされた。
赤くなった左の頬を、癒すように撫でる。守は座席に座りながら、呆然と静梨を見上げた。
小さな空中密室の中で、少女は静かに佇む。
ゆっくりと観覧車が下へと下りていく。まだ太陽はオレンジに届いておらず、強い光が二人を照らしている。
静梨の右手が離れ、ペンを執った。さらさらと静かな音が流れる。
少し長い文のようだ。ページに何らかの文を書くと、裏のページにも何かを記した。
書き終えた文面を見せられ、守はそれを丁寧に追っていく。
『あなたのことを信じたいです。だから信じます。ちゃんとあの日のことを話したいと思います。守さんになら話せるから』
真心がこもった文章は、とても綺麗だった。
文章はまだ続いていた。
『それと、守さんにお願いがあります。聞いてくれますか?』
視線を僅かに上にずらすと、静梨の真剣な顔があった。まじまじとその顔を見つめ、守はやがてこくりと頷いた。
静梨はその所作を認めると、おもむろにページをめくった。
そこにあった内容に、守は、
『今夜、守さんの部屋に連れていって下さい』
観覧車が下に下り切る。密室が、消える。
二人が過ごす遊園地の時間が終わろうとしていた。