夏休みに入ってから一週間。
ともすれば堕落しきってしまいそうな休みの日々は、妹の指導によってまあまあ健全な方向へと進んでいた。朝が遅いのはともかく、三食きちんと食べて、夜更かしもしない。家事も出来る限り手伝うし、無駄に遊んで時間を浪費することはなかった。
その日、俺は病院を訪れていた。
母親の見舞いのためである。母親は長いこと入退院を繰り返していて、入院しているときも出来るだけ俺たちは会いに行っている。当の本人は自分たちの時間をもっと持ちなさい、と言うが、母親との時間を過ごすのは俺たちにとって大切なことなのだ。
病室に入ると、母さんはすぐに気付いて手を上げた。優しい笑顔に俺も軽く手を上げる。元気そうだ。
「真希は?」
「今日は連れてきてない」
「あら、なんで?」
「友達付き合いを優先させた」
真希は学校の友達と遊びに行っている。ただでさえ家事全般に追われて多忙な中、少しは友達と遊ぶことも大事だと考え、俺が無理やり行かせたのだ。
「いいお兄ちゃんね、正治」
「あいつの方が偉いよ。休みに入っても世話になりっぱなしだし」
「そういうところがいいって言ってるのよ」
「俺よりあいつを誉めるべきだと思うけど」
「誉め言葉は本人に直接言うものなのよ」
母さんのからかうような顔に俺は苦笑する。
花瓶の水を交換したり、洗濯物を紙袋に入れたりしながら、俺は尋ねた。
「体調どう?」
「まあまあ、かな。悪くはないわよ」
「どっか痛むところとか」
「大丈夫よ、前に比べたらかなりマシになってるんだから」
「マシって……嫌な言い方するな」
つい軽口をたしなめる。母さんはごめん、と素直に謝る。
六年前、母さんは買い物から帰る途中で、トラックに撥ねられた。
重傷で、母親は傷を治すのに一年を費やした。元々体が弱いこともあってか、完治した今でも後遺症に悩まされている。免疫力が低下しており、小さな風邪にも気を付けなければならなくなってしまった。
「とにかく、今は大丈夫なんだな」
「うん」
「それならいい」
母さんは嘘をつくことがないので、その短い返答でも俺は安心した。
「そういえば正治」
「なに」
「昨日ゆかりちゃんがお見舞いに来てくれたわよ」
「!?」
思いがけない話に目を剥いた。
確かにこの間ゆかりに会ったときに、母さんが入院していることは話していた。しかしまさか見舞いに来てるとは。
「高校は前よりも近くて、家から通えるようになったんだって。前は寮生活だったからよかったわねーって母さんつい嬉しくなっちゃった」
「聞いてないぞ。なんであいつが」
「なに言ってんの。昔からよく家に遊びに来てたんだから、ほとんどうちの子供みたいなもんじゃない。娘が母親の心配をするのは当然のことでしょ」
「小野原家ごと否定する気か。……そっか。ゆかりが……」
俺はため息混じりに一人ごちる。ゆかりらしい配慮といえばそうだが、忙しいくせにそこまで気を回さなくていいと思う。
「あいつと話したの?」
「うん。もー美人になっちゃって! 進学校の制服もかわいいデザインだし、あれはモテるわねー」
「いや、それはどうか知らないけど……」
ちょっと身贔屓が過ぎるんじゃないか。確かに容姿が悪いとは微塵も思わないが、並より少し上くらいではないだろうか。美人というのは終業式の日に会った少女のような者にふさわしい言葉だ。
と、話題がそれた。聞きたいことはそれじゃない。
「あいつさ、変わったよな」
「え? どうして」
「え?」
不思議そうに問われて、逆に困った。
「いや、あいつ昔は喋ったりするのが苦手だったから」
「ああ、そういえばそうね。でもそんなに違うものでもないじゃない。今でもあの子はいい子だし、何も変わってないわよ」
「……そんなものかな」
いまいち納得が行かなくて首を傾げる。真希も同じようなことを言っていたし、変わったと思うのは俺だけなのか。
「ひょっとして、どう接していいのか悩んでいるの?」
母さんに尋ねられて、揺れた思考のまま頷く。
「そんな感じ。いや、別に昔みたいに親しくすればいいんだろうけど、なんか違うような気がして」
「あやふやね。それじゃちょっとアドバイスのしようがないかな」
母さんの口調は軽いが真摯な響きだった。
「でもね、昔とか今とかこだわらずに、相手に接することが大事だと母さんは思うわよ」
俺は黙ってそれを聞く。
「長年仲良くしてても、人間なんだからわからなくなることくらいあるわ。でもきちんと自分なりに相手と向き合うことが大切。人の頭の中は見えないけど、想いはちゃんと伝わるのよ。互いに理解し合おうとすれば」
「……」
まるで古い恋愛講座を聞かされている気分だったが、言わんとすることはわかった。
ようは迷ってもいいから逃げるな、そういうことだろう。向き合わなければ理解どころじゃないから。
少しだけ気が晴れた。俺は母さんに向かってありがとう、と呟く。
「あ、でも一つだけ注意」
そこで改まって指を立てられた。なに、と尋ね返すと、
「やっぱり淫らな行為は出来るだけ控えた方がいいわよ。するにしても避妊はしっかりね。母さんも父さんと付き合い始めた当初は、プラトニックなラブを育んでいたから……」
「…………」
俺は無言で帰り支度を始めた。