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縁の糸 ゆかりの部屋・5

 病院を辞してしばらく。
 適温に保たれている院内とは違い、外は釜茹でされているみたいに暑かった。半袖シャツの内側にじわじわ汗が吹き出てくる。額も髪の間を抜けるかのように、水滴が流れていく。
 アイスでも買っていくかと俺は近くのコンビニを探した。値段の安いスーパーかデパートが財布に優しくベストだが、この際どっちでも構わない。とにかく店を──
 視線が固まった。
 瞳の先に制服姿のゆかりが立っていた。
 俺はうまく反応出来なくて、目を眩しそうにしばたく。
「まさくん……帰り?」
 声をかけられて慌てて返事をする。
「あ、ああ。……ちょうど見舞いに行ってきたところで、今から帰る」
「ふぅん……一緒に帰ってもいい?」
「いや、どうせ方向同じだし」
 それもそうだね、と肩口で揃えた黒髪がささやかに躍る。ヘアピンが控え目に前髪を固め、彩っている。
 その姿はついこの間まで知らなかった幼なじみの成長の証で、女性らしい部分がくっきりと丸みを帯びている。夢の中でも彼女には会っていたが、その肢体は色っぽく、艶があった。
 といっても、あれは夢の中なわけで。つまりは俺の妄想なわけで。
 すまない、ゆかり。夕べ俺はお前に口では言えないいろんなことをした。
「まさくん? おーい……」
「……大体急に変わるからいけないんだよな」
「なにが?」
 呟きにいちいち反応するが、無視する。てゆーか聞かないでくれ。
 俺たちは並んで歩き出す。ゆかりの目線が昔より下にあった。
 こうして仔細に渡って観察してみると、いくつもの発見がある。
 背の高さ、歩幅の長さ、表情の豊かさ、言葉の巧みさ、それらは確かに幼なじみのものなのに、一つ一つに知らない何かが混じっていて、全てを掛け合わせると、目の前の成長した幼なじみの姿へと変貌を遂げてしまう。
「制服だけど、今日も学校か」
「うん」
「この道で会ったってことは、母さんの見舞い?」
「うん。ごめんね、連絡もしないで勝手なことしちゃって」
「いや、ありがとな。母さんも喜んでたよ」
「今日はまだ行ってないんだけど、……もうまさくんは行ってきたんだよね」
「昨日行ったんだろ。十分だよ。母さんもはしゃぎすぎるし。……そういえばアイス買おうと思ってたんだけど、ゆかりもいるか?」
「え?」


 甲高い蝉の鳴き声に、暑さと汗が入り混じる。
 ゆかりは細い裏道を指して、先に店があると言った。知らなかった情報に感心する。
 民家の屋根瓦が、灰色のブロック塀が、ひび割れそうなくらいに日を浴びている。電柱は短い影しか落とさず、アスファルトの日除けにさえなってくれない。飛ぶことで涼しい風を浴びようとするかのように、雀が電線の上を通過していった。
 本当に暑い。
 でも、ゆかりはどこか楽しそうだった。
 店に入ってバニラのカップアイスに喜び、店を出て夏の日射しの強さを嘆く。何気ない反応を当たり前のようにして、ゆかりは俺を惑わせる。
 楽しげな振る舞いのどこに戸惑っているのか。自分でもよくわからない。
 昔と違っても本質は変わらないとわかっているのに、俺は違和を感じている。なぜだろう。今のゆかりも、俺にとってはとても大事に想えるのに。
「……どうしたの、まさくん?」
 横から覗き込んでくる小さな顔は、綺麗な笑みをたたえている。
 ……今のゆかりはこんなにも魅力的なのに。
 俺は言葉なく首を振り、力ない笑みを返した。
 そのまま変わらず歩いていると、ゆかりが足を止めた。
「ねえ、ちょっと休もっか」
「え?」
 疑問の声には答えず、ゆかりは道の先を指差す。歩道脇に小さな公園の入り口が見えた。
 先導する彼女の後を追う。公園内は寂れた様子で、どこにも子供の姿はない。チェーンの錆びたブランコが風に吹かれて緩やかに揺れた。日を照り返す砂場の色が微かに眩しい。
 俺たちはブランコに座り、溶けそうな熱の中まだ溶けていないアイスを食べる。
「おいしいね」
「ああ。でもすぐに喉が渇くんだろうな」
「じゃあ次はジュースだね」
「帰って麦茶を飲むのがベストだ」
 財布を軽くする提案を、やんわりと拒否。まあジュースくらい奢ってやってもいいけど。
 ゆかりは小さく苦笑した。それから表情を改めて、
「まさくん」
「ん?」
「私といるの、気まずい?」
「……え?」
 急に心臓を掴まれたような、そんな驚きを受けた。


「……なんで」
「ん、なんとなく、かな。まさくん、戸惑っているんじゃないかなって」
「それは、」
 俺は言い淀む。
 正直戸惑いはつきまとっていた。だが、気まずいなんてことはない。と思う。
「……多分、お前が変わったように感じて、それで違和感があるせいだと思う。でも気まずいなんてことはない。ゆかりはゆかりだし、俺や真希にとって大切な人であることは絶対に変わらない」
 ゆかりは少しだけ、嬉しそうに口元を緩めた。
「変わりたくて変わったわけじゃないよ」
 愛惜の影が僅かに差したような気がした。
「成績がいいってだけで私立の中学を勧められて、私もみんなの喜ぶ顔が見たくて、でも途中から理由が変わって、」
 義母のことだ、と俺は瞬時に理解する。小学六年の時にゆかりの父親が再婚したが、無口なゆかりは義母との接し方に苦慮していた。
 全寮制の私立中学に入ることで、ゆかりはそれから逃れようとしたのだろう。さらに三年間、ゆかりはこちらに戻ってこなかった。
「でもそのせいで、私はまさくんからも離れてしまった。まさくんは私にとって、誰よりも大切な人だったに」
「……」
「まさくんに会いたいと思った。それでようやく帰ってきたけど、通う学校も違うし、どんな顔で会えばいいのかわからなかった。三年間は、ちょっと長すぎたかな」
「……」
「まさくんがいないということがわたしを変えた。積極的に会話するようになったし、友達も多く出来た。でも、まさくんにはその変化がおかしく映るのかな」
 ゆかりは寂しそうに笑む。
「ごめんね。昔の小野原ゆかりはどこにもいないみたい。まさくんの隣にいた頃とは、もう同じじゃないから」
「違う」
 俺はたまらなくなって、思わず叫んでいた。
 ゆかりは驚いたように目をぱちぱちさせた。
「関係ないよ。さっきも言っただろ。昔だろうと今だろうとゆかりはゆかりだ。確かに困惑はあったかもしれない。でもこれからまた隣にいてくれるんだろ。同じかどうかなんてどうでもいいじゃないか」
 ゆかりは微笑む。どこか諦めたように。
「隣には……いられない」
「え……?」
 自分の口から漏れた声は、ひどく間抜けに聞こえた。
「まさくんは今の私を好きじゃないみたいだから」
 錐を突きつけられた思いがした。
 絶望的に平坦な声に対して、俺は無理やり答える。
「……好きだよ」
「うそつき」
 簡単に断言されて、二の句が告げられなかった。
 それでもなんとか言葉を紡ぐ。
「俺と一緒にいたくないのか?」
「そんなことないよ。ただ、昔みたいにお互い好き合っていられないなぁ、って」
「それでもいいだろ。昔みたいにいかなくても、一緒にはいられる」
「私が辛いの」
 息が詰まった。
「戻ってきたら前みたいになれるとずっと思ってたから。でもこの間まさくんと会ったとき、それが幻だったことがわかって、それでもまさくんを見つめようとするのは……辛いの」
 ゆかりは顔を伏せる。
「三年間待った想いって結局なんだったんだろう、って思えてきて、まさくんの側にいたら悲しくなってくるの。でもそれをまさくんのせいにはしたくないから」
 自分自身が情けなかった。俺の態度がゆかりに悲しい思いをさせたかと思うと、許せないくらい悔しかった。
 どうすればいい。どこかで壊れてしまった互いの関係を、どうやって直せばいい。
 頭が真っ白になって何も考えが浮かばなかった。ただ歯痒く、幼なじみを見つめることしか出来ない。
 容赦なく言葉が続いた。
「それにね、私も多分まさくんと同じ。今のまさくんを、前みたいにちゃんと好きかどうか、自信がない。だから、これからはただのお友達でお願いします、『沢野くん』」
 決定的だった。
 さっきまで仲良くアイスを食べていたのが嘘みたいで、間に出来た溝は底が見えないくらい深くて、
「……そうか」
 結局気のきいたことも、逆転の言葉も吐けず、馬鹿みたいにうなだれるだけだった。
 ゆかりがブランコから腰を上げた。申し訳なさそうな目で体を屈めると、俺の頬に唇を寄せた。別れのキスは、暑い日差しの中で微かに冷たかった。
 そのままゆかりが離れていく。ブランコに座り込んだまま彼女を見つめる。姿が見えなくなっても、俺は立ち上がることすら出来なかった。
 やがて茫然自失のまま帰路に着き、のろのろと家に帰った。


 自分の部屋でベッドに倒れ込むと、様々な言葉が頭を横切った。
 あなた、大事な縁が切れかかってるよ──
 ゆかりさん、今でもにぃのこと──
 きちんと自分なりに相手と向き合うことが大切──
 これからはただのお友達でお願いします、『沢野くん』──
「……」
 真希も親父もまだ帰ってきていない。ベッドの上で身じろぎ一つしないでいると、外の音が強く聴覚を刺激した。
 蝉の鳴き声が聞こえる。隣家の雑談が聞こえる。車の駆動音が聞こえる。
 なんて無駄な感覚だろう。こんなに鮮明に聞こえる耳なのに、彼女の心の声を拾えなかった。
 あいつの想いにはずっと前から気付いていた。そこに甘えていたかもしれない。あいつはいつまでも俺を好いていてくれると、呑気に思い込んでいたから。
 でも一番の問題は、俺があいつをどう思っているかだろう。
 好きなはずだ。好きだと思う。きっと好きだ。胸の内を切り開けば、そんな中途半端な言い回しばかり出てくる。想いに混じる、微かな違和感。
 この違和感の正体が掴めず、俺は迷っている。その迷いがあいつに伝わってしまったから、あんなことを言われたのだ。そして、恐らくはもう手遅れなのだろう。
「……」
 体が気怠い。
 なぜだろう。
 泣きたいくらい悲しいのに、泣けない。一人なんだから思う存分涙を流せばいいのに、目にはなんの変化も起こらない。
「……」
 もう、本当に何もかもどうでもいいという気がして、俺はベッドに沈み込むように脱力した。


 その日の夜は早々とシャワーと食事を済ませ、自室に引き込もった。
 不審に思ったのか真希がうるさく話しかけてきたが、俺は適当にあしらってとっとと寝床に入った。

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