「はあ……」
溜め息です。溜め息。朝の空気はおいしいけど、ごめんなさい、溜め息つかせてもらいます。
いきなりブルーな感じでごめんなさい。私は仲村伊月。ある学校の養護教諭をしてます。
あれです。いわゆる「保健室の先生」ってやつ。
まだ先生になって二年くらいなんですけど、毎日頑張ってます。
頑張ってるんですが──
「あーあ……」
最近ちょっと気持ちが落ち気味です。
理由ははっきりしてるんですけどね。
私には年下の恋人がいるんですけど、最近なかなか二人っきりになれないんです。
しばらく前に卒業式が終わって三学期もあっという間に過ぎようとしていますが、すぐに年度が変わって入学式、始業式があります。
養護教諭にはあまり関係ないと思われるかもしれませんが、関係大アリです。入学式、 始業式はともかく、来月は身体測定や体力測定、健康診断が行われるのです。
うちの学校の生徒数は1200人。その全てのデータを一新してまとめ上げ、管理する必要があります。行事進行のスケジュール作成や校医さんとの打ち合わせもあるし、結構大変 なんですよ。
四月に入る前に在校生のデータを見直して、新しいクラスごとに整理。元々体の弱い子や前回異常の見られた子などは別にチェックする必要があるかもしれないので、前もって相談しておかなきゃいけません。
それに加えて通常の仕事。水質管理や掃除指導。インフルエンザは過ぎましたけど、花粉症対策指導なんかもやってますし、毎日出欠表を見ながら生徒たちの体調にも気を配ってます。ついでに学校ホームページの更新も。なぜ保護者の方のお悩み相談ページが増えてしまっているのか謎です。
そんなこんなでなかなか時間を作れません。
「会いたいな……青くん」
ぶっちゃけますとですね、会おうと思えば会えるんですよ。なぜなら私の彼氏こと青くんは、うちの生徒なのですから。
でも養護教諭と生徒が恋人関係にあるなんて、知られたらまずいわけで。
だから行動も慎重になってしまいます。
去年時間のあるときなんかは、放課後に保健室で二人っきりの時間を過ごしたりしてたんですけどね。あ、やらしいことはしてませんよ。ハグとか頭なでなでとかほっぺたすりすりとか、ちょっとしたスキンシップをね。……キスくらいは許してください。
今はそういうことをなかなかできません。メールや電話くらいはするんですけど、やっぱり直接会いたいじゃないですか。軽く話をして、別れる際にぎゅってしてもらえたらそれだけで最近の苦労も吹き飛ぶというのに。
あー、青くんに会いたい。
授業中は仕方ないと思います。学生だし、勉強はしっかりしないといけません。でも昼休みとか放課後とか、ちょっとの時間でもいいんです。会いたい。
実は何度かメールで待ち合わせの連絡をしたんですけどね。断られちゃったんですよ。別に用があるとかなんとか。
確かに来月から最上級生。受験もあるし忙しいのかもしれません。
でも、顔を見せることくらいできないのかなあ。他の生徒は何も用事がなくても遊びに来たりするのに。……あいつら勝手にベッドに寝転んだり、最近調子乗ってるな。あとで体育館裏……じゃなかった、説教タイムね。
でも無理は言えません。だって私は先生。ついでに青くんよりお姉さん。年上なのだからわがままを言っちゃダメなのです。我慢我慢。
そのうち時間がとれたら、そのときはいっぱい甘えちゃおうと思います。
さあ、今日も一日頑張るぞ!
◇ ◇ ◇
一時限目は各学級から集められた出欠簿をパソコンにデータ入力します。各学級にパソコンを導入して担任の先生方が入力してくれれば、こんな手間かけなくて済むのに。
入力を終えると保健室に鍵をかけて校内を見回ります。
こっそり青くんのクラスを覗きに行けるチャンス! あ、もちろんあからさまにはできません。一応見回りがメインなので、入口の小窓から授業の様子を見るだけです。
青くんの教室は東校舎三階の真ん中辺り。2―Fです。私は少し早歩きになりながらそこを目指しました。最短経路でそこまで行って、見回りはそれからってことで。
教室の前に辿り着きました。中を覗くと、青くんは窓際の席に座って、板書をノートに写していました。さすが青くん。きちんと勉学に励んでいるようで、先生は嬉しいですよ。ああ、頭撫でてやりたいです。ついでに抱きついてぎゅーってしたい。
青くんの様子を確認した私は、速やかにそこを離れます。ほんの数秒ですけど、青くんの様子を見られてよかった。心置きなく見回りに向かえます。
広い校内を隅々まで見て回ると、時間はあっという間に過ぎてしまいます。保健室に戻ってきた時には、時計の針は十一時に差し掛かっていました。
昼食を摂るにはまだ早い時間帯。私は正午過ぎまでたまっている書類を整理することにしました。養護教諭にだって事務はあるわけで、その辺は普通のOLと変わらないかもとか思ったり。OLがどういう仕事をするのかよく知らないけど。
しばらくデスクワークに励んでいると、正午のチャイムが鳴りました。お腹もほどよく減ってきたので昼食にします。
昼食は持参のお弁当です。私は基本保健室で食べます。ただ、一人ではありません。大抵もう一人と一緒に食べます。
お弁当の蓋を開けたところで、そのもう一人がやって来ました。
「おっす。失格教師」
ガラッと扉が開けられました。コンビニの袋をぶら下げながら、ショートカットの女性が入ってきます。……今、何か言ったよね。
「何よ、その失格教師ってのは」
私は同い年の同僚に向かって聞き返しました。彼女は袋を机に置きながら答えます。
「教師失格教師。略して失格教師」
「何が失格だって言うの?」
「教え子に手を出してる時点で失格だろう。というか人としてだな」
「違うわよ! 私、青くん相手に授業とかしたことないもん。だから教え子じゃないもん」
「いや、あんた養護教諭だろ」
「だって授業もしてないのに教え子っておかしいじゃない! 私だって青くんに授業したい!」
「そこかい。まああんたはちゃんと仕事してるし、立場とかいろいろわきまえてるから私としては別にいいんだけど」
同僚はそう言ってサンドイッチを頬張りました。
彼女の名前は後藤流佳(ごとうりゅうか)。日本史の先生です。実は高校時代の同級生で、同じ職場とわかった時には心底驚きました。
彼女はこの学校で私と青くんの関係を知っている唯一の人間です。そのことでいろいろとからかわれたりネタにされたり、私としては気に入らないのですが、一応口は堅いので他の人に言いふらされる心配はないと思います。多分いい友人なのでしょう。
「で、その青くんとは最近どうなんだ?」
流佳の問いかけに私は小さく唸りました。
「青くん分が足りない……」
「ん? ひょっとして欲求不満?」
「私は一日一青くん分が最低限必要なの!」
「栄養源扱いか」
「今は予備バッテリーでなんとか保っている状態」
「なんだそれは」
「青くんとの思い出とか携帯の青くん待ち受けとか自宅にある青くんアルバムとか夢の中での青くんとの触れ合いとか……」
「病院行け」
「まあ冗談は置いといて」
私は椅子の背もたれにぐでー、と体重を預けます。
「青くんと全然過ごせてないんだよね……もう少ししたらある程度時間を取れるのかもしれないけど」
流佳はふむ、と軽く頷くとサンドイッチをつまみました。
「しかし青くんの方はどうなんだろうな」
「え?」
「恋人なんだから青くんの方も会いたいと思うだろう。でも何のコンタクトもない。何か理由があるんじゃないか?」
「受験で勉強が忙しいとか」
「会うだけなら昼休みでもできる」
「じゃあどんな理由?」
「……他に好きな女ができたとか」
「ありえないよ」
私は即答した。
「なんで言い切れる?」
「だって青くんだもん。青くんが浮気なんてリスクのある行為に走るわけないじゃん」
「……それは男としてどうなんだ」
「青くんをなめるなよー。ヘタレっぷりに関しては日本ウェルター級三位なんだから」
「またワケわからんことを……」
「とにかくありえません。基本いい子だから、浮気してたらそ知らぬ顔で電話なんてできないよ。隠し事苦手なんだから」
「彼氏とは思えないくらいひどい評価だな……」
流佳はパック牛乳をストローでちゅうちゅう吸いながら席を立ちました。ベッドに寄るとどっかり縁に座り込みます。人がせっかく整えたシーツを簡単に乱すな。
「まあそこまで言うなら大丈夫なんだろうな」
「当たり前! 勝手にベッド使わないでよ」
眠たいんだ、と答えると流佳は横になって目をつぶります。少しだけだぞ。
「それなら……」横になりながら流佳は呟きました。
「え?」
「……会わないのは何が理由なんだろうな?」
◇ ◇ ◇
午後は学校を出て、非常勤の校医さんに会いに行きます。
こちらの用意する資料と健康診断の時間帯の確認。手順や場所の説明にいくつかの話し合いをしてその日の打ち合わせは終わりです。
学校に戻ってからは教頭先生に報告をして、また見回りして、資料をまとめて、職員会議用にプリントを用意して、会議に出て、
午後六時前になってようやく私は一息つきました。
ペットボトルの紅茶を飲んで溜め息をつきます。疲れました。早く家に帰ってご飯を食べたいです。そのあとまた資料作成の続きをしなければならないのですが。
今日も青くんと会えませんでした。これでもう三週間近く会えてません。
本当に寂しいと思いました。お互いやることがあるので仕方ないんですけど。
私は仕事。青くんは勉強。手を抜いてはいけません。
でもやっぱり会いたくて、触れたくて、
朝と同じ溜め息が漏れます。
荷物をまとめて鍵を確認して、私は保健室を出ようとしました。
その時ガラッ、と扉が開けられました。
そこには私の会いたい人がいました。
「青くん──」
青くんは鞄を提げながら何も言わずに部屋に入ってきます。そのまま後ろ手で鍵をかけて青くんは私の前に立ちました。
久しぶりに二人きりです。しかしうまく言葉が出ません。
「伊月さん」
私が戸惑っていると、予想外に真剣な声で名前を呼ばれました。
「ど、どうしたの、青くん?」
「プレゼント」
「え?」
青くんは鞄から小さな箱を取り出しました。私は呆然としながらそれを見つめます。
箱の中にはネックレスがありました。青い石が綺麗に輝いています。
「これを……私に?」
青くんは照れくさそうに笑います。
「伊月さんがずっと忙しくしてたから、何かプレゼントをあげたいと思ったんだ。でもなかなかバイトの時間取れなくて、お金貯めるのに時間かかっちゃった」
安物だけどね、と謙遜する青くん。
……バイト?
「……じゃあ青くんは、ずっとバイトで会えなかったの?」
「いや、伊月さんが忙しくしてたから邪魔しちゃ悪いと思って」
「……受験勉強は?」
「まあ、まだ結構余裕あるし」
「……」
「伊月さん?」
「……くんの」
「?」
「青くんのばかあああぁぁ────────────っっ!!!」
私はなんだか無性に腹が立って、放課後の保健室の真ん中でおもいっきり叫びました。
◇ ◇ ◇
帰り道。
「いい、青くん? 私はプレゼントが欲しいんじゃないの。青くんとの時間を過ごせれば十二分に満足なの。だからわざわざ校則違反を犯さなくてもいいの。わかる青くん?」
「はい」
「別にプレゼントがいらないわけじゃないの。青くんからこんなに素敵なプレゼントを貰えて、正直おかしくなりそうなくらい嬉しいけど、だからってなにも教えてくれなかったらむちゃくちゃ不安なの。恋人を不安にさせたんだよ君は? これは重罪だよ? セントヘレナに島流しにしても足りないくらいだよ」
「はい」
「どうして笑ってるの? 私は真面目な話をしてるのに君はヘラヘラして腹立つよ。お詫びに何かしてあげたいとか思わない? 抱き締めたりキスしたり」
「はい、お姫様」
「姫じゃなーい。ほら、ぎゅってして」
「……ここで?」
「はやくー」
「……はい」
「──」
「……」
「──うん、オッケー。よくできました」
「はい」
「じゃあ次。キス」
「…………ここで?」
「はーやーくー」
「……………………はい」
「ん……」
「……」
「んん……んう……」
「……っ」
「……ん、まあこんなところでカンベンしてあげる」
「……はい」
「ありがとね、プレゼント。嬉しかったよ」
「はい、どういたしまして」
「お返しに駅前でソフトクリームおごってあげる。給料日前でごめんね」
「はい」
今夜はぐっすり眠れそうです。