◇ ◇ ◇
最初の思い出は砂場。
『ねえ、なにやってるの?』
『なにかかいてるの?』
『ゾウ? すごい! じょうずだね!』
いつも一人で遊んでいた少女に、彼はいきなり話しかけてきた。
夕方の、子供のいなくなった公園で。
少女は何も答えなかった。ただ話しかけてきた男の子を見つめていた。
ほめられたことに気付いた瞬間、嬉しかったことを憶えている。
それが、二人の最初の出会い。
それから二人は同じ場所でよく遊ぶようになった。
遊ぶといっても紗枝が砂場に絵を描くのを風見が眺めるだけで、他には何もしなかった。
絵の舞台を砂場から自由帳に移しても、それは変わらなかった。
風見はいつも笑っていた。
ただ絵を眺めるだけで何もしない。にもかかわらず風見は常に楽しそうだった。
なぜ? と紗枝は不思議だった。そんなに何がおもしろいの?
紗枝は怖かった。誰かに自分のことをうまく伝えられないために、周りとうまく過ごせなかったから。
しかし風見は言った。
『ぼくはこわくないの?』
怖くなかった。風見は紗枝を理解してくれるから。
『じゃあ、ぼくがさえちゃんのいいところをみんなにおしえてあげるよ!』
紗枝は驚き、戸惑った。そんなことしなくてもいい。
『だいじょうぶ。こわくてもぼくがまもるから』
そう言って、風見は紗枝を連れていろんなところに行った。
遠くの公園に行った。田舎のおばあちゃんちに行った。真夏の花火大会に行った。
紗枝は怯えながらもいろいろなものに触れ、少しずつ世界を広げていった。
楽しめる世界を広げていった。
小学校に上がり、他の子供達に囲まれることになっても、風見は側にいてくれた。
もちろんうまくいかないこともたくさんあったが、風見がどこまでも引っ張ってくれた。
今こうして紗枝が毎日を楽しめるのも、風見のおかげだった。
もう風見に守ってもらう必要はない。
でも、紗枝は──
◇ ◇ ◇
家に帰り着いたのは七時前だった。
長話をしていたらすっかり遅くなってしまった。あんなに自分から喋ったのは初めてかもしれない。
翔子は楽しそうに紗枝の話を聞いていた。
『あいつらしいね』
そのときの顔はどこか何かを吹っ切ったように、紗枝の目には映った。
部屋に戻り、机の上のものを見る。
お返しを、返事をする。紗枝が悩み、結論付けた単純な答えで持って。
一ヶ月なんて必要なかったのかもしれない。
それでも、紗枝が自分を見つめ直すには大事な期間だったと思う。
机の上のプレゼントを鞄に入れ、紗枝は一階に下りた。
まだ父は帰ってきていない。母に橋本家へ行くことを伝えると、「頑張ってきなさい」となぜか激励された。
外に出て、慣れ親しんだ向かいの家の前に立つ。
辺りはすっかり真っ暗だ。その中で玄関の明かりだけが強く輝いている。
紗枝は大きく深呼吸をして心を落ち着かせると、玄関のベルを鳴らした。
十秒後、ばたばたという足音が聞こえ、ドアが開いた。
中の光と共に、幼馴染みが姿を現す。
「……待ってたよ」
風見は短く囁くと、紗枝を中に招き入れた。
紗枝の右手にある手提げ鞄を訝しげに見やったが、特に何も言わない。
紗枝はリビングのソファーに浅く腰掛けながら、台所に消えた風見を待った。
戻ってきた風見は、お盆に載せたお茶を差し出し、対面のソファーに座る。
「えっと……」
先に口を開いたのは風見。
しかし言葉が続かない。多分何かはっきり言うことがあったわけではないのだろう。
紗枝が喋らなくてもいいように、リードするつもりなのだろう。
「あのさ、紗枝」
「……」
「答え、聞かせてくれるんだよね」
紗枝は頷く。はっきりと。
「じゃあ、OKなら頷いて。違うなら、」
「かざくん」
発した声音は随分自然だった。
風見が冷水を浴びたように驚きの表情を浮かべる。
「ありがとう、いつも守ってくれて」
十年間分のお礼を言葉にこめる。
「……なんだよいきなり」
風見はどう反応していいかわからないようで、小さくぼやいた。
「ずっとかざくんが守ってくれてたから……私はここまで成長できたんだよ」
「……」
「でも、もういいの」
「……それ、どういう意味」
紗枝は直接は答えなかった。
「ずっと考えてた。私はかざくんをどう思っているんだろう、って」
「……」
「それで、思ったの。私はかざくんが好きだって」
でも、と紗枝は続ける。
「それはかざくんとは違う好きかもしれない……私はあなたを、あなたが私を見るようには見てこなかったから」
微かに寂しい気持ちになった。
風見は無表情だ。
「私はかざくんを少しも理解してなかったのかもしれない……」
「……つまり、ぼくとは付き合えないってこと?」
紗枝は首を振る。
「だから、改めてそういう目で見ようと思った。そしたら……嬉しくなっちゃった」
「嬉しい、って」
「温かい気持ちになれた。嬉しくて、恥ずかしくて、苦しかった」
「……」
「変だよね。今更そんなことに気付くなんて。自分のことさえ、私はわかってなかったんだよ?」
「……」
紗枝は幼馴染みの目を真っ直ぐ見据えて言った。
「この気持ちはかざくんの積み重ねてきた気持ちとは違う。まだ生まれたばかりで私にもよくわからない」
「……」
「この気持ちが確かなものかさえ、私にはわからない。でも私はかざくんと一緒にいたいと思う。だから──」
頬が熱くなる。羞恥で胸がいっぱいになる。
「──これからも一緒にいてくれますか?」
一ヶ月かけて出した単純な答え。
一緒にいたい。それが紗枝の一番の願い。
紗枝はじっと幼馴染みを見つめ、答えを待った。
すると、風見は答えずにすっ、と立ち上がった。
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
紗枝がぼんやりとそれを見つめていると、傍らに膝をつく。
そして、おもむろに抱き締めてきた。
「あ……」
紗枝は咄嗟のことに反応できず、ただ固まっていた。
耳元で風見が囁く。
「疑問系に疑問系で返すなよ……」
「……うん」
「付き合ってくれるんだよね」
「うん」
「ありがとう。すごく嬉しくてほっとしてる」
「うん」
紗枝はそれしか返すことができない。
「ずっと好きだったんだ……」
「うん」
「こうやって抱き締めたかった」
「うん」
「あったかくて、柔らかい。安心するよ」
「うん」
「ずっと一緒にいたいよ」
「うん」
「もっと近付きたい。紗枝をもっと知りたい」
「うん」
「キスしていい?」
「うん」
え?
次の瞬間、紗枝は唇を奪われていた。
目に映るは両目を閉じた幼馴染みの顔。
不快感はなかった。紗枝は優しい感触に身を委ね、目を閉じた。
今までで一番長く短い瞬間に、紗枝はいつまでも浸っていたいと思った。
紗枝は体を離すと、鞄からプレゼントを取り出した。
バレンタインのお返しだ。普通のお返しではないが、受け取ってほしい。
風見の前に四角い板状のものが現れる。
それはキャンバスだった。油絵などに使われる画布。
そこに描かれているのは橋本風見その人だ。
一ヶ月かけて紗枝が描いたものである。美術学校卒の母親に道具を借りて、脳裏に描いた幼馴染みをキャンバスに写したのだ。
スケッチのような下書きは得意でも、色塗りは苦手である。一ヶ月未満ではやはり満足に仕上げられなかったが、
「時間なくて完璧にはできなかったけど、頑張って描いたよ。絵を描くこと自体久しぶりで、うまくないかもしれないけど──」
キャンバスの中の風見は楽しそうに笑っている。
それが一番風見らしい表情だと思う。
風見はキャンバスに描かれた自分の顔を見て──絵と同じように微笑んだ。
「うまいよな、昔から紗枝は」
「そ……そんなこと」
「ぼくは紗枝の絵が好きだったんだ。久しぶりに見たけど、やっぱり上手だね」
「……」
初めて出会ったときのように、彼は誉めてくれた。
昔から変わらない笑顔と共に。
どうにもくすぐったくて、紗枝は恥ずかしそうに顔を伏せる。
「照れた?」
「……馬鹿」
照れ隠しの一言を、少女は小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
こうして二人は付き合うことになった。
互いの『好き』に多少の違いはあるけど、紗枝はもう気にしなかった。
これからいくらでも想いを深めることができるのだから。
今はただ一緒にいられることを喜んで、楽しんで。
(明日からよろしくお願いします、かざくん)
紗枝は向かいの家に対して嬉しげに呟くと、電気を消してベッドに潜り込んだ。