甘利紗枝は目覚まし時計のアラーム時刻を、午前六時にセットしている。
りりりりりん、りりりりりん、と耳元で鳴る音に目を覚ますと、彼女はベッドからのろのろと這い出た。
寝惚けまなこをぐしぐしと擦り、若干ふらつきながら部屋を出る。
一階に下りると洗面所で顔を洗う。冬場の水は冷たくて苦手だが、覚醒には持ってこいの刺激だ。
口をゆすいで、髪を丁寧にとかすと、玄関先に朝刊を取りに行く。
ダイニングにそれを置きに行ってから、一旦部屋に戻って制服に着替える。
鞄の中身を確かめて、布団をベランダに干す。パジャマと下着を洗濯機に放り込んだら次は台所だ。
毎日のお弁当を作るのは紗枝の仕事。父の分と自分の分、ついでに幼馴染みの分まで作る。
誰かのために料理をするのが大好きな紗枝の、毎朝の日課である。
朝に弱い母に代わって作るのが当たり前になってしまっている。ちなみに夕食は母の担当だ。
ご飯はもう予約通りに炊き上がっているので、作るのはおかずだけだ。
玉子焼きに唐揚げにミートボール、タコさんウィンナーに夕べの残りのポテトサラダ、あとはプチトマトを添えて出来上がり。今日は後半がちょっと手抜きになった。
七時前に起き出してくる父のために、コーヒーとトーストの用意を済ませたところで、ようやく紗枝は一息つける。
ダイニングでコーヒーを飲みながらテレビのニュースを見ていると、父が起きてきた。
「おはよう。今日も朝からすまんな」
紗枝は笑顔で首を振る。朝の準備は自分の仕事であり楽しみの一つだから、どうってことない。
三月十四日のB型の運勢はやや上向き。困っている人がいたら助けよう。ラッキーアイテムは十手。
テレビの占いに紗枝は内心でつっこむ。女子高生が十手なんか持つか。
作ったおかずの残りを食べながら、紗枝は時計を見た。そろそろ出ないと間に合わない。
ごちそうさまと手を合わせてから席を立つ。食器を流しに運び、そのまま洗面所へ。
歯を磨いて、もう一度姿見でみだしなみをチェックすると、紗枝は自室に戻る。
用意した鞄を右手に持つ。忘れ物はないかと部屋を見回す。
ふと机の上のものを確認。
「……」
視線を外して玄関に向かう。待たせると悪い。
家を出ると、向かいの家からも制服姿の少年が出てきた。
幼馴染みの橋本風見は、紗枝の姿を見ると小さく手を上げた。
「おはよう、紗枝」
紗枝は微笑みと共に頷きで応える。風見もつられるように笑い、二人は並んで歩き出した。
こうして一緒に登校するのは小学校からの習慣だ。
この時間帯が紗枝は好きだった。
慣れ親しんだこの『これから登校』という空気が心地よい。
たぶん学校が好きだからだろう。
風見と一緒に行く、学校が大好きだからだろう。
「……」
だが、その好きな空気は、必ずしも当たり前のものではない。
しばらく前まで、紗枝はそのことを思い知らされていたのだ。
◇ ◇ ◇
バレンタインデーに風見に告白された。
いきなりのことにびっくりして、目の前が真っ白になって、紗枝はそのときのことをよく覚えていない。
逃げるように自宅に戻り、なんとか落ち着いたところでメールを返した。
保留のメールを。
いきなり告白されても困る。紗枝は風見をそんな目では見てなかったのだから。
紗枝にとって風見は兄弟のような、あまりに近しい存在だったのだ。
そんな相手に想いをぶつけられて、紗枝は複雑な気持ちだった。
嬉しくないと言えば嘘になる。
しかしそれ以上に重たいと感じた。
近しいからこそわかる。風見の気持ちがどれだけ本気か。
それを受け止められるのだろうか。あるいは断れるのだろうか。
返事をすること自体が無理に思えた。簡単に決められるわけもなく、紗枝は結論を出せなかった。
もやもやした気持ちを抱えたまま朝を迎え、紗枝はそれでもいつも通りの時間に家を出た。
そして幼馴染みと顔を合わせた瞬間──紗枝は思わず目を逸らしていた。
それからちらりと横目で風見の顔を見直し、紗枝は後悔した。
微かに、風見が悲しげな表情を浮かべたからだ。
避けられたと思ったのかもしれない。違うと否定したかったが、気付かないふりをした風見の様子に、紗枝は何も言えなかった。
二人は距離を置いた。
どちらが言い出したわけでもない。なんとなく、そういう空気になってしまったのだ。
クラスが違うため、そんなに顔を合わせる機会はなかったが、いつも共にする昼食まで二人は別々にとった。
紗枝はこの方がいいのかもしれないと思い直した。朝のことは別にして、気まずさを抱えていたのは確かだったからだ。
今は気持ちを整理するときなのだろう。
それからしばらくは会わない日が続いた。
朝の時間帯をずらし、帰りもばったり会わないように気を付けた。
日常から幼馴染みの姿が消えてしまったようで、寂しく感じた。だがしばらくの辛抱だと紗枝は自分に言い聞かせた。
授業に集中し、委員の仕事を的確にこなした。
そして風見のことを考えた。
自分は彼をどう思っているのだろう。
嫌いではなかった。むしろ大好きだった。
だがその『好き』は彼の持つそれとは違う気がした。