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正鵠を射るために・3(5)


◇      ◇      ◇

 それから私たちはそれなりのペースを保ちながら山を登った。
 道端にあった自販機で飲み物を買って、休憩を挟みつつ、山の澄んだ空気や鮮やかな景色を楽しみながら、のんびりと進んだ。
 とはいえ先に言ったとおり、だらだら歩く真似はしなかった。きびきび歩いた方が疲労は溜まらないらしい。修一くんも私の脚が心配ないとわかって安心した様子だった。
 途中の道沿いに川が流れていて、上を見上げると吊り橋が架かっているのが見えた。上流に向かって歩くと、その先には大きな滝があった。パンフレットにも載っていた、名所の一つだ。他の観光客が滝をバックに写真を撮っている。人が落ちないように柵が設けられていて、滝のそばまで近づくことはできなかったが、ずいぶんと高いところから水が落ちてくるせいか、水が風に吹かれて霧雨のように散り、飛沫がこちらまで飛んできた。不快ではなく、むしろ気持ちよく感じられるのは自然の偉大さゆえだろうか。
 人一人の悩みなど、この大きさの前では実にちっぽけな気がする。
 私は携帯電話でその風景を撮影した。修一くんもデジカメを持っていたので、他の観光客に頼んで2ショット写真を撮ってもらった。
 滝の近くには螺旋階段があった。そこを上ってさらに高いところまで行くと、滝が上から覗けた。別の角度から見るとまた違った味わいがある。上から見た滝つぼの周りは白く泡立ち、外側の青色とあいまってクリームソーダのように映った。
 そのまま道なりに進むと、先ほどの吊り橋が見えてきた。
「あそこから向こう側に渡ると、茶屋があるみたいですね。そこからまた少し登れば頂上です」
 道脇に立っているマップを参照して、修一くんが現在位置とここからの道順を確認している。私はそれを聞いて大きく息を吐いた。
 吊り橋の下には通ってきた道が伸び、川が流れている。
 50メートルなんて走れば5秒とかからない長さだ。それが高さに転じただけで、こんなにも高く、遠く感じるものなのか。道を歩くまばらな観光客が虫のように小さく見えた。
「……ここを渡るのか」
 修一くんも少しだけ息をつく。
「高いところは俺も苦手です」
「いや、私は別に苦手だとは言ってない」
「怖くないんですか」
「怖くない。ほら、みんな渡っているし」
 意外と有名な場所なのか、結構な人数が橋を渡っていくのが見えた。ツアーで来ている人たちもいるらしい。橋は頑丈な鉄筋コンクリート製で、何本ものワイヤーでつながれている。台風の真っ只中を渡るわけでもないのだから、何も不安がることはない。
 ないはず。
 拳を強く握ると、修一くんは言った。
「先輩、やっぱりこ」
「怖くない」
 実際に吊り橋の高さを目にしたら、予想以上の高さに驚いたことは認めよう。しかし断じて怖いわけではない。怖いわけではないのだ。
 びっくりしただけだ。
「よし、行こう」
「……わかりました」
 橋の幅は大人二人分といったところで、並んで歩くと狭く感じた。なので私が先に行き、修一くんが後をついてくることになった。
 気を引き締めて、いや取り直して、私は橋へ一歩目を踏み出した。
 うん、頑丈なつくりだ。何も問題ない。
 進み始めると足はスムーズに動いた。下を見ると緊張するので、できるだけ前をまっすぐ見つめながら歩く。ただ、病気を発症して以来、足元を見ながらバランスを取る癖がついていたから、一切下を見ずに歩くというのも難しかった。
 それでも、順調に中ほどまでやってきた。
 向こう側までの距離はどれくらいだろうか。全長は121メートルと入り口に書いてあったから、残りは60メートルくらいか。もう半分まで来ている。あと少し。
 足元が揺れた。
「ひうっ」
 思わずすくんでしまった。止まった足を再び動かそうとすると、また揺れが起こり、体がぐらついた。
「先輩」
 後ろから両肩を掴まれて、私は身を強張らせる。遅れてそれが修一くんの手であることに気づき、後ろを振り向いた。
「大丈夫です。風ですよ」
「風……?」
 言われてみれば風が吹いている。標高の高さに加えて、地上から50メートルも上空にいるのだから風くらいあって当然なのだが、橋は鉄筋製で、おまけに鋼鉄のワイヤーを幾重にも張り巡らせているのだ。それでも揺れるものなのか。
 よくよく目を凝らすとたしかに揺れている。
「ワイヤーでガチガチに固定していても、揺れそのものは止められないんでしょうね。というか、しっかり固定しているからこの程度で済んでるんじゃないですか」
 落ち着いてみると、揺れそのものはたいしたことはなかった。地震なら震度1くらいだ。橋の上だからこんなにもすくんでしまうのだ。
「さっさと渡りましょう。あと半分です」
 私は黙ってうなずいた。早くこの場から離脱したい。
 細かく続く揺れを極力考えないようにして、なんとか向こう側にたどり着いた。ほぼ同時に修一くんも到着した。
「……怖かったですね」
「……うん」
 強がる気力もなかった。
 地面の上を歩けることがこんなにも安心できるなんて、今の今まで気づかなかった。この安堵感を忘れないように生きていきたい。
 最大の難所を越えた私たちは、再び歩き出す。
 そこから2分ほど歩くと、一軒の店が見えてきた。あれが茶屋だろうか。
 肉体的な疲労はさほどなかったが、さっきの吊り橋で精神的に疲れていた。私たちはつかの間の休憩所にたどり着いたことでつい嬉しくなって、ハイタッチを交わした。
「おつかれさまでした」
「おつかれさま」
 まったく、池からここまでの道のりがずいぶん長かったように感じられる。実際の距離はそうでもないはずなのに。
 それでもその疲れは嫌なものではなく、どこか充実感があった。


 そのときの私は、病気のことも、弓道のことも忘れて、本当に楽しい時間を過ごしていたのだ。
 だから、その茶屋に入ろうとした瞬間、私は呆然と立ち尽くすことになった。
 店先には野点傘を差した縁台があって、そこには一人の少女が座っていた。
 整った形ながらも無表情な顔つき。切れ長の目がどこか冷たい印象を与える、同い年の少女。
 傾けていた湯呑みを口元から離すと、彼女はこちらの姿を捉えて、ふうと息をついた。
「遅かったな」
 弓道部の同級生、阪東伊代だった。

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