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正鵠を射るために・3(4)


◇      ◇      ◇

 先のことはともかく、今日このときだけを見るなら、なかなかに充実しているといえた。
 ボートを降りてもまだ時刻は午前中だった。昼食にはまだ早いので、今度は山の頂上を目指すことになった。
 ハイキングコースが設定されていて、途中に滝と吊り橋があるという。その近くにある茶屋で昼食代わりの軽食をとって、そのあと頂上にたどり着いたらリフトで戻ってくるということになった。
 道はしっかりと整備されていて歩きやすい。山奥の静かな土地だと思っていたが、意外と人の手が入っているらしい。交通機関のアクセスさえ整えば、もう少し観光客も多くやって来て賑わうのだろう。しかしそうならないでほしいと思ってしまうのは、こののどかな土地を気に入ってしまったからかもしれない。歩きながら見えてくる周りの景色は、春の暖かい雰囲気をそのまま表すように豊かな彩色が広がっていて、心を自然と穏やかにさせてくれる。雪のように白い桜の花と口紅を塗ったように赤い梅の花のコントラストは、山々をまるで化粧を施した花嫁のように美しく映えさせていた。
 そんな春の美しい風景の中を、私たちは並んで歩く。
 私の体の調子に配慮してか、修一くんの歩行ペースはゆっくりとしたものだった。時間に余裕があるとはいえ、こんなペースでは頂上に着くまでにどれだけかかるか知れたものではない。
「修一くん、もっと速くても私は大丈夫だから。そんなに気を遣わなくてもいい」
 しかし後輩は聞く耳を持たなかった。
「これはハイキングですから。景色を楽しみながらのんびり行きましょうよ」
「旅館に戻るころには日が暮れているかもしれないぞ」
「早く戻りたいんですか?」
 そういうわけではないが。
「なら、いいじゃないですか。こうやってゆっくり二人で歩くのも、デートっぽいと思いますよ」
 返事に困ることを言う。
「……だから、それは違うと」
「違ってもいいんです。今は玲子先輩と、のんびり歩いていたいから」
「どうして」
 修一くんは答えた。
「だって、先輩はこんなに歩けるようになったんですよ。凄いことじゃないですか、そのことをもっと楽しんでほしいんです」
 その言葉に、私は立ち止まってしまった。
 彼はどうしていつもそうなのだろう。
 慕われる、好かれるというのは、もちろん嬉しいことだ。だが彼の目にはそういった個人的事情を抜きにした、純粋な感情が見える気がした。
 その言葉は、本心なのだ。
 私のことを気遣って言ったのではない。本当に私のことを凄いと思ってくれているのだ。
 修一くんは何度もお見舞いに来たから、私の体が一番よくなかったころを知っている。そのころと比べれば、今の状態はたしかに調子がいいのだろう。
 しかしそれをそういう風に言葉に出して認めてくれる人は、なかなかいなかった。家族は励ましてくれたが、友達に凄いなんて言われたことはなかった。当たり前だ。みんなができる当たり前のことが、私にはできないのだから。こんな、ボートを漕ぐのにも苦労する体を、どうして凄いと思えるだろう。
 ましてや、気遣いなく相手を褒め讃える言葉なんて。
 別に褒めてもらいたいわけではない。しかし言葉は弱った心に勇気を与えてくれる。
 彼の言葉は私を元気付けてくれる。
 嬉しくないわけがないのだ。
 返す言葉は素直なものではなかった。
「凄くないよ。弓も引けないこんな体なんて」
「今はそうかもしれませんけど」
 修一くんは立ち止まった私にそっと右手を伸ばした。
「本当はこうやって手を差し出して、先輩の手をずっと引けたらなんて思うんです。そうしたらもっと頼りがいのある男として先輩の隣にいられるかなって」
 私はその広げられた手を見つめる。
「でもそれは俺のわがままです。俺の知ってる先輩は、一人で立つことのできる人です。誰かの助けは借りても、それに頼り切ることなく、いずれ自助できるようになります。だから、いつか必ず先輩は弓をまた引けるようになるし、そのとき俺の助けは必要なくなっていると思うんです。そして、それでいいんです」
 僅かながら、その言葉は寂しげに聞こえた。
「元の体に戻れると、修一くんは思っているの?」
「もちろん。根拠はありませんけど」
「なんだそれは」
 まったく。無責任な言葉だ。
 もう私は弓を引けないのだ。それはあの夜の弓道場で確信してしまった。修一くんがどんなに私を信じていても、そればかりはどうしようもない。
 だが、その言葉は不思議と心地よかった。
「……私だって、誰かが引っ張ってくれるなら、その手を握り締めたいと思うことくらいあるよ」
 目の前の手を、しかし私は取らない。
「お姫様抱っこで支えてくれるような王子様への憧れも、ないわけじゃない。ただ……うん、私はなんでも自分でやりたがるから、寄りかかるのは苦手かもしれない」
「はい」
「自分を一番支えるものは自分だと思っているから、誰かへの依存は避けたいんだ。でも、助けてくれるのは嬉しいから、寄りかからない程度に、手を借りるかもしれない」
「それでいいと思いますよ」
 修一くんは差し伸べた手をゆっくりと引っ込めた。
 そして私は再び足を動かし始めた。
「今は手よりも言葉が嬉しいかな」
「そうなんですか?」
「うん。だから、さっきの修一くんの言葉は嬉しかった」
 並んで歩を進めながら、彼は慌てたように弁解した。
「一応言っときますけど、お世辞じゃないですからね。本当に先輩のことは凄いと思いますし」
「わかってる」
 歩行ペースを少しだけ速めた。
「先輩」
 心配したのか、修一くんが気遣わしげに声をかけてきた。
「大丈夫。あれだよ、ちょっとしたリハビリ代わりだ。だらだら歩くより、しっかりとした足取りの方がいい」
「先は長いですから、あまり無理しないでくださいね」
「うん」
 私は、自分の体がこれ以上元に戻る見込みはないと思っている。
 それでもせめて、普段の生活だけは元通りにしたい。
 たとえ弓が引けなくても、こうして彼と気兼ねなく歩けるような、そんな当たり前の日常だけは持ち続けていたい。
 何もかも失ったと思うのは早すぎる。私は生きているのだから。
 修一くんといると、素直にそう思えるのが不思議だった。

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