青川文花(あおかわふみか)はぼく、日沖耕介(ひおきこうすけ)にとって、とても気になる娘である。
別に飛び抜けた美人というわけじゃない。目鼻立ちは整っていたけどどこか薄い印象を受けるし、小柄な体は百五十センチくらいしかない。セミロングの綺麗な黒髪がちょっと目をみはる以外はごく普通の女の子だ。
ぼくと彼女の接点はほとんどなかった。同じ高校でクラスが近い(ていうか隣)ためによく見掛ける程度で、お互いに全く無関係のところで日々を過ごしていたのだ。
あの日までは。
◇ ◇ ◇
ある日曜日の夕方、ぼくは市内の体育館を訪れていた。
体育館の入口には大きな看板が立て掛けられていて、極太のゴシック体で『総合格闘技イベント Brave Squad』と書かれている。
ぼくは格闘技が大好きで、よくテレビで観戦している。三ヶ月前にチケットを購入してから、今日の興行をずっと楽しみにしていた。マイナー団体の地方興行とはいえ、生観戦はテンションが上がる。
受付にチケットを渡して中に入る。普段の閑散とした静けさはどこへやら、今日の館内は熱気がこもっていた。結構な数の人が集まっていて、そこら中から期待感のような、空気の圧力を感じる。
ぼくはその空気に気圧されて、思わず立ち止まった。
そのせいで後ろを歩いていた人とぶつかってしまった。
「あっ、すいません」
すぐに振り向いて謝るが、相手からの反応は何もなかった。
「……」
相手は沈黙している。
不思議に思って、ぼくは頭を上げた。
女の子だった。
周りが男ばかりだったせいか、ぼくはかなり驚いた。しかしすぐに別の驚きにとらわれる。
少女の顔には見覚えがあったのだ。
「……青、川?」
記憶の片隅に辛うじて引っ掛かっていた名前を口にすると、少女は驚いたように目を見開いた。名前が合っているかどうか自信がなかったが、どうやら間違ってないようだ。
「隣のクラスの日沖だよ。覚えてる?」
「……」
青川は無言のままこくんと頷く。その動作はどこか無機質で、人形のような印象を受けた。
改めて彼女の姿を眺めやる。
普段の制服のイメージからは私服姿など想像もつかなかったが、今着ている薄い青色のワンピースはよく似合っていた。
上から羽織っている白いカーディガンも、より黒髪が映えるようで、全然地味には見えない。女の子って服装でこんなにも変わるのか。
それにしてもなぜ青川がここにいるのだろう。今日のイベントを見に来たのだろうか。
「青川も格闘技見に来たの?」
こくんと頷かれる。なぜかうつむいて目を合わせてくれない。
「へえ、青川も格闘技見るんだ」
「……」
今度は頷きはなかった。ぼくは言葉が続かず狼狽する。ちょっと無口すぎないか。
「も、もうすぐ始まるから早く席につこうか」
青川はまったくの無表情だったけど、ぼくが奥へ向かおうとすると後ろからとことことついてきた。言葉は発さないだけで、別に嫌われているわけでもないのか。
無口無表情の様子からは、その心はなかなか見えなかった。
体育館の中央に特設されたリングの上では、屈強なヘビー級ファイター同士が壮絶な殴り合いを繰り広げていた。
寝技に持ち込む気は互いにないらしく、双方とも鼻血を流しながら打撃オンリーでぶつかっている。集まった観客は大興奮で、大きな声援が会場を飛び交っている。
その中で、ぼくと青川だけが無言でリングを見つめていた。
小さな会場だから、自由席でもリングの様子ははっきりと見える。おかげで迫力も熱気もビンビン伝わってくる。しかし、ぼくのテンションは微妙に上がらなかった。
隣に座っている青川の様子が一切変わらないからだ。
女の子と一緒に格闘技を観戦しているということへの違和感もあった。だがそれ以上に、彼女が反応というものをほとんど見せないのだ。
アクションのない女の子の横で、ぼくだけ興奮しまくるのもなんか気まずい感じがするので、テンションを上げ辛かった。
青川は視線をそらさず、真っ直ぐリングを見つめている。
青コーナーの選手の右フックが相手の顎を打ち抜いた。相手はその場に崩れ落ち、審判が追い打ちをかけようとしていた選手の間に割って入った。TKOだ。
周りの歓声が一段と高まった。試合の凄絶さに鼓動が早まる。息が詰まるほどの高ぶりに襲われ、ぼくは感嘆の息をついた。
青川を見ると、やはりと言うべきか泰然としていた。迫力のKO劇にも顔色一つ変えない。高ぶるでも怖がるでもなく、ただ静かにリングを眺めていた。
周りの歓声が収まるのを待って、ぼくは青川に話しかけた。
「すごかったね、青川」
青川は頷いた。思えば今日、彼女の反応をこれだけしか見てないような気がする。
なんとかコミュニケーションを取ろうと、少しやり方を変えてみる。
「これからの試合の予想しない? 勝敗多く当てた方が勝ち。負けた方がジュース奢るってことで」
青川がきょとんとなる。至近距離で見つめられて、さっきとは違う動悸がぼくを襲った。いや、唐突な提案なのはわかっているんだけど。
パンフレットを広げて対戦カードを確認する。既に三試合消化されたので残りは四試合。次は軽量級の試合だ。
「どっちが勝つと思う?」
青川はしばらくパンフレットを見つめると、ゆっくりと片一方の選手の名前を指差した。白く小さな指だった。
ぼくは少し驚いた。青川の指した選手は寝技主体の、どちらかといえば地味な選手だったからだ。KO勝ちはなく、かといって一本勝ちも少ない、判定にもつれこむことが多い派手さに欠ける選手だ。
一方の対戦相手はその真逆で、打撃の強い選手だった。KO率も高く、ルックスもいいので華がある。寝技に難ありという弱点はあれど、十分強い。青川はてっきりこっちを選ぶと思っていた。
「……いいの? ぼくはこっちを選ぶけど」
「……」
青川は小首を傾げる。その仕草はなんだか無垢な小動物のようで、ぼくは気恥ずかしくなった。
「じ、じゃあその次の試合も予想しようか」
誤魔化すようにパンフレットを寄せる。すると、青川も顔を近付けて覗き込んできた。綺麗な黒髪から、柑橘系の爽やかな匂いがした。
おかげであんまり予想に集中できなかった。
しばらくして、次の試合が始まった。
青川が選んだ選手は打撃戦に一切付き合わず、徹底的にタックルからの寝技に持ち込む戦法で攻めこんだ。
ぼくは打撃が一発入ればそれで終わると思っていた。しかし予想に反してその一発が当たらない。立ち技では相手に組みついて打撃を封じ、寝技では終始上のポジションをキープしてまったく危なげない。
結局、判定で青川の選んだ選手が勝ち名乗りを受けた。
ちらりと青川を見やった。それに気付いて彼女もこちらを向く。表情は相変わらず能面だったけど、もう慣れてきた。
苦笑いが自然と生まれた。予想が外れた悔しさと同時に嬉しくなる。青川は本当に格闘技が好きなんだろう。選手の派手さや見た目に左右されず、ちゃんと技術を見ている。女の子の趣味としては渋いけど。
何で笑っているの、とでも言うように、彼女が見つめてくる。
ぼくは笑みを浮かべたまま、リングを指差した。
「ほら、もう次の試合が始まる」
青川はすぐに顔を戻し、四角いリングをじっと見据えた。