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彼女の至福・1


「泊まり?」
 学校からの帰り道、一緒にいた彼女の言葉にぼく、日沖耕介は思わず訊き返した。
 青川文花はこくりと頷くと、こちらの様子を窺うようにどう?という目を向けてきた。
 上目遣いに見つめられてぼくはどきりとする。
 青川が言うには今週末、両親が泊まりがけで祖父の家に行くらしい。
 青川も一緒に行く予定だったらしいけど、土曜の夜にテレビで格闘技中継があるために断念したのだそうだ。祖父の家は山奥で、テレビの映りが悪いという。
 ぼくは青川の小柄な体を見やる。
 百五十センチくらいしかない背丈にセミロングの艶やかな髪。
 そのかわいらしい容姿にはまるで似合わないけど、青川は格闘技マニアだ。
 それもそこらのミーハーなファンとは一線を画す程重度のマニアで、自身も柔術をやっている。彼女の部屋には、地上波ではまず流れないくらいマイナーな大会のDVDが、棚に並んでいるのだ。
 そんな彼女だから、テレビの格闘技中継を優先するのは当然といえた。
 録画すればいいのではと思わないでもないけど、そんな意見は通用しない。結果を遅れて知ることに耐えられないと青川の目が言う。
 で、せっかく親が出掛けるのだから、うちに来ないかというのが青川の提案だった。
 青川の家にお泊まり。それも、二人っきりで。
 反対するわけがない。
 ぼくは喜んで青川に頷いてみせた。
 青川もほっとしたのか安心したように微笑み、頷いた。

      ◇   ◇   ◇

 そして土曜日。
 ぼくが青川の家に着いたのは夕方も近い時間だった。泊まりに行くならせめてその前に手伝えと、ずっと家の掃除をさせられていたのだ。
 煉瓦色の大きな家に着いて、すぐに呼び鈴を鳴らすと、青川はすぐに出迎えてくれた。
「ごめん、遅くなって」
 青川は軽く首を振ると、急かすように中へと招いた。
 そっけない態度に怒ってるのかと一瞬思ったけど、そうではないらしい。なんだか急いでいる感じだ。訝しく思いながらも靴を脱いで中に上がる。
 玄関からすぐ左。ドアを開けると灰色の絨毯に三つのソファーが鎮座するリビングが現れる。壁際のプラズマテレビがCMを流している。
 青川は手早くお茶とお茶受けを出すと、ぼくの方には見向きもせずにリモコンで操作を始めた。録画の準備をしているのだろうか。確か格闘技中継は夜九時からだったと思うけど。
 と思っていたらいきなりテレビの画面が切り換わった。
 アリーナだ。今日のイベントの会場だけど、今はまだ夕方の四時。放送までまだ五時間あるはずなのにどうしてテレビに、
 ……いや、リアルタイム放送はありうる。
「衛星専門か」
 地上波放送は夜九時からだけど、PPVの衛星専門チャンネルならリアルタイムで大会が観られる。
 なるほど、と納得した。さっき急いでいたのはこれに間に合いたかったのか。
 衛星専門チャンネルでリアルタイム、しかもプラズマテレビの大画面で観る。これってなかなかに贅沢なことだと思う。
 青川……君はどれだけ格闘技好きなんだ。さすがにちょっと呆れますよ。
 ぼくは思わず肩をすくめたけど、青川は意に介さない。ソファーに座ってじっと画面を見つめている。まだオープニングセレモニーで試合始まってないんだから、もう少し肩の力を抜こうよ。
 とはいえ、ぼくも格闘技ファンの端くれ。一瞬たりとも見逃したくないという青川の気持ちはよくわかる。リアルタイムで観られるなら尚更。ぼくは苦笑しながら青川の隣に腰掛けた。
 青川は何も言わなかった。無言のまま画面を注視している。
 ただ、そっと左手をぼくの右手に重ねてきた。
 柔らかく温かい、小さな手。
 ぼくは嬉しくなって、甲に乗せられた青川の手を握り直した。恋人握りのように指同士を絡めると、無表情だった青川の顔に僅かに赤みが差した。
 それからぼくらは何も言わず、ただテレビ画面を見つめていた。


 五時間後。
 全十二試合の熱戦が終わり、ぼくらはようやく一息ついた。
 途中の休憩時間に雉撃ちと花摘みを済ませた以外は、ソファーから一歩も動かなかった。お茶受けの煎餅がまるで減っていない。
 イベントは大当たりだった。第一試合から好勝負の連続で、メインの試合など判定決着ながら手に汗握る名勝負で、終わった瞬間には深い溜め息が洩れる程だった。
 さすがに五時間ぶっ続けで観ると疲れる。ぼくはんんー、と伸びをして体をほぐした。
 青川が地上波放送に切り換えている。あ、そっちも観るんですか。さすがです。
 が、さすがの青川も今度はしっかりかっちり固まって視聴、ということはしなかった。台所からお皿を運んでくる。食事をしながら適当に流し見るつもりのようだ。手伝いを申し出ると小さく首を振って断られた。
 仕方なく座って待っていると、すぐに青川が料理を持ってきた。あらかじめ作っていたらしい。カレーにグリーンサラダだ。カレーに盛った福神漬けが嬉しい。
 烏龍茶をグラスに注ぎ直し、ぼくらは少し遅い夕食をとり始めた。
 カレーはシーフードでやや甘口。でもエビやイカの味がしっかり効いている。辛すぎると魚介類の味が負けてしまうかもしれないから、これくらいが丁度いいのかな。
「おいしい。これ作ったの?」
 尋ねると青川は小さく頷いた。
「へえ、料理得意なんだ」
「……初めて」
「へ?」
 青川の言葉にぼくは目を丸くした。
「ひとりで作ったのは、初めて」
「……じゃあ普段は料理しないの?」
 再び頷く。
「ひょっとして、ぼくのため?」
 青川は顔を伏せて呟いた。
「耕介くんに、作りたかったの」
 ぼくのために。
 嬉しくないわけがない。普段料理をしないという彼女が、わざわざ泊まりに来る彼氏のために腕をふるったというのだから。しかもうまい。
「ありがとう、青川。とってもおいしいよ」
 ぼくは感謝の念を込めて礼を言った。
 しかし彼女はその言葉を聞くや眉をひそめた。
 じっとこちらを見つめてくる。というかはっきり睨んでいる。
 ぼくは慌てた。あ、あれ、何かまずいこと言ったかな?
「あ、青川?」
 青川の目がさらに険を増した。
 な、なんでだ。ただ名前を呼んだだけなのに、なぜそんな冷たい視線を向けてくるんだ。仮にも恋人にそんな目を向けるなんて、ぼくには君の名前を呼ぶ権利さえ、
 名前。
「……」
 それが原因なのでしょうか。
「えっと……文花?」
 改めて下の名前で呼ぶと、文花はようやく気付いたかとばかりに重々しく頷いた。
 ぼくはしばらく前まで青川を苗字で呼んでいた。
 ところがある時、ふとした際に下の名前で呼んでやったら、彼女はこれをいたく気に入り、以来二人っきりの時は名前呼びを義務付けてくるようになった。
 もちろん異論はない。しかしあの時はなんというか雰囲気で呼べたわけで、普段から慣れている苗字の方が呼びやすいのも確かなわけで。
 まあでもとりあえず謝ろう。
「ごめん文花。まだ慣れてないみたいだ」
 青川は軽く溜め息をつくと、小さな声で言った。
「ゆるさない」
 すねたように呟く青川。
 困った。さて、どうすれば機嫌を直してくれるだろう。
「どうすれば許してくれる?」
 青川は言った。
「……いっぱい気持ちよくしてくれたら、いいよ」
 耳元で囁くように。
 その言葉に正直くらりときた。頭が酔いそうなくらい揺れる。
「……えー、……つまりその、」
「罰、なんだから」
 楽しそうな声で言う。
 からかいの意味もあるのだろうけど、青川はえっちなことに積極的だ。
 だからよく主導権を握られてしまうのだけれど、やっぱり男としては巧くリードしたい。
「精一杯ご奉仕させていただきます、お姫様」
 ぼくはにやりと笑みを見せる。
 青川はぼくの芝居がかった台詞に目を見開いた。いや、似合わないのはわかってるんだけどね。
 青川は面白そうに微笑んだ。
「楽しみ」

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