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縁の切れ目 言霊の約束・14


「結婚?」
 翌日、朱音が言った一言に、依子は荷物をまとめる手を止めた。
「誰が?」
「りこちゃんが」
「……誰と?」
「まーくんと」
「…………」
 依子は目を細めて実の母親を見やった。
「……なんで?」
「え? だってりこちゃん、まーくんのこと好きなんでしょ?」
「いや、それはそうだけど……」一瞬の間。「……なんで知ってるの?」
「かわいい声だったからね」
 顔が刹那で真っ赤になった。昨夜の情事が脳裏に走り、依子はうつむいてしまう。
「かわいいわーりこちゃん。あっくん泣いてたわよ」
「……」
 そんなに大きな声を出していたという意識はなかった。出していたとしても広い屋敷の一隅でのこと、気付かれていないと思っていたのに。
 いや、まあそれはともかく、
「……だ、だからって、なんで……結婚……なんて」
 うまく声が出なかった。恥ずかしさが顔を真っ赤に覆っているようだ。
「愛し合った二人の行く末なんて、ハッピーエンドなら一つに決まってるじゃない。王子さまがニューヨークで花嫁を見つけることだってあるんだから」
 全然関係ないし、そもそもそれ映画だし。依子はため息をつく。
 少し落ち着きを取り戻すと、小さく首を振った。
「……ダメだよそんなの」
「どうして? 日本じゃ十六歳で結婚できるわよ」
「まだ高校生だもん。それに……」
 依子は昨日友達に言われたことを思い出す。
「……結婚もいいけど、簡単に道を決めてしまうのももったいない気がするの。まだまだ先は長いし、たくさん考えて決めたい。だって……楽しみたいもの」
「……」
 朱音は微かに眉を上げると、それからにっこり笑った。
「そっか。先は長いものね。結婚はちょっと早すぎたかな。お母さん先走りすぎちゃった」
「うん」
 依子は小さく笑う。
 荷物は少ないので整理はすぐに終わった。旅行鞄のジッパーを閉め、依子は軽い息を吐く。
 朱音が笑顔のまま言った。
「まあでも、婚約くらいは交わしてもいいんじゃないかしら」
「……婚約って」
 大袈裟なことだと依子は苦笑を浮かべる。
「……将来、マモルくんよりもっといい人が現れるかもしれないよ? そのときはどうするの?」
「それは絶対にありえないわね」
 断言された。
 依子は思わず口ごもった。正直自分でもありえないなと思っていたから。
 数日前まであんなにも態度を決めかねていたのに、今は体の内側に根を張るように、心はぶれない。
 縁が見えていたときとは違う安定感が、内面にあった。
「結婚なんてまだわからないけど……そうなれたらいいね」
「そのときは遠藤依子になるのかしら」
「……ん?」
 そのとき、唐突に思い出した。
 前に依子は自分の苗字を言いたくなくて、遠藤姓を名乗ったことがあったのだ。
 あのときは咄嗟に口から出ただけだったが、今になってそれが思い出されるなんて。
「……どうしたの?」
「ううん。言霊って、本当にあるんだなぁ、って思っただけ」
「? すみちゃんのこと?」
「違う。お姉ちゃんのじゃなくて……ううん、なんでもない」
 朱音は軽く首を傾げたが、すぐに微笑んだ。
「まあいつどこにいようと、りこちゃんはりこちゃんだもんね。苗字なんて関係ないか」
「……ありがとう、お母さん」
 依子は神守を名乗れなかった。緋水の名も、今は持っていない。
 それでも依子は依子だ。どんな姓を持とうと、それだけは変わらない。
 今なら百合原姓を名乗れそうな気がした。
 帰ったら友美になんて言おう。やっぱりただいまって言いたいかな。依子は義母の優しい顔を思い浮かべる。
「何時の電車に乗ればいいかな?」
「三時くらいのに乗ればちょうどいい時間じゃないかしら。それまでにまーくんちにも挨拶に行ってらっしゃい」
「うん」


 外は数センチ程積もった雪が地面を白く覆っていた。
 ぐしゃ、とした感触を足の裏に受けながら遠藤家に行くと、ちょうど火梁が道場を開けようとしていた。
「おばさん」
「ああ、依子ちゃん。今日守と帰るんだろう?」
「はい。だから挨拶に」
「またちょくちょく帰って来なよ。今回は守がそっちでお世話になったから、次はうちでごちそうしてあげるよ」
 男勝りの彼女だが、実は優しい人柄である。実の息子や兄には容赦ないが、それも一種の愛情表現なのだろう。
 依子が微笑で応えると、火梁も小さく笑った。
「悩みごとは解決したようだね」
「え?」
「昨日は元気なかったから。でも一晩で整理がついたのなら大したものだよ」
 見透かされるほど、昨日は元気がなかっただろうか。
 そもそも昨日はこの家を出た後の方が憂鬱で、火梁の前ではそんな素振りは見せていなかったはずなのに。
「……誰だって悩みはありますよ」
「そりゃそうだ。うちの愚息にさえ生意気にも悩みがある。だからあんたが悩んでいても大したことじゃない」
「……」
「でもなかなか解決しないから悩むんだろう? じゃあやっぱりあんたは大したものだよ」
「……マモルくんのおかげですよ」
「あれが役に立ったのなら功名だ。あいつにも意味ができる」
 よくわからない言い草に首を傾げると、火梁は言った。
「あいつはあんたに必要な奴かい?」
「……はい。とても」
「そっか」
 火梁は一つ頷くと道場の鍵を外しだ。最近は門下生も減ってきててね、とぼやきながら扉を開ける。
 そして、
「あれはあんたの『盾』だ。望むなら、ずっと側にいてもらいな。未熟だが、きっとこれからは守ってくれる」
「え?」
 依子はまた疑問の声を上げた。
 マモルくんが、私の『盾』?
 火梁はもう何も言わなかった。ただ親指で家の方を指しただけで、そのまま道場の中へと消える。
 多分守は奥にいるという意味だろう。依子は釈然としないまま家の玄関へと向かった。


 守の部屋は家の一番奥にある。
 依子はドアの前で何度か深呼吸を繰り返し、二回ノックを重ねた。
「んー?」
 がさがさと騒がしかった物音が止まり、中から間伸びした声が聞こえた。
 入るね、と言ってドアを開けると、守が荷物整理をしていた。
「あ……」
 守の顔がりんごのように真っ赤になった。
 それを見て依子も急に恥ずかしくなったが、深呼吸が効いたのかすぐに落ち着けた。
「おはよ」
 いつもと同じく挨拶をすると、守は照れ隠しの笑みを浮かべ、もうすぐ正午だよと言った。
「……ちょっと不思議だな」
「何が?」
「たった一晩で、依子ちゃんが違って見える」
「……そ、そうかな」
 落ち着きが一言で掻き消された。赤面しながらよくそんな台詞を言えるものだ。
「三時の電車がちょうどいい時間だって」
「そうなの? じゃあちょっと急ぐかな」
 守は再び手を動かす。何やら部屋中引っくり返しているようだが。
「何やってるの?」
「母さんに後で送ってもらう荷物を整理してる」
「手伝おっか?」
「じゃあそっちの服なんかをお願い」
 依子は言われるままに、脇に追いやられた衣類を畳み始めた。
 しばらく無言で作業を進める。衣服は畳んだ先から段ボール箱に詰め込んでいった。
 不意に守がぽつりと言った。
「ぼくは昭宗さんの後を継げないみたいだ」
「……?」
 依子は怪訝な顔でいとこを見やった。
「母さんに言われたんだ。一つの盾で二人の人間を守れるのか、って」
「それは、」
「依澄さんの『盾』になるには、彼女を最優先に守れる人間じゃないと駄目なんだ。でも、ぼくは依澄さんを選ばなかった」
「……」
 心がズキリと痛んだ。
 だが後悔はしない。守に対する気持ちは本物だから。
「後継者の立場を外された、ってこと?」
「うん、そうなる。まあ後継候補は他にもいるからそれは大丈夫だけど」
 守は口を引き締めると、依子に向かって言った。
「だから、ぼくは君の『盾』になる」
「……え?」
 いきなりの宣言に依子は呆然となった。
「この前は君を守れなかったけど、もう二度とそんなことにならないようにする。ずっと側にいたいから」
「…………」
 これは――改めて、ということなのだろうか。
「プロポーズ?」
「え!?」
「違うの?」
「い、いや、その、……うん。まあ、そういうこと」
「すぐ結婚したいって思う?」
「……ちょっと早いかな。あと何年か待ってほしい」
「じゃあ婚約だけね」
 依子は守に近付くと、唇に軽くキスをした。
 驚きの顔を見せる恋人に、少女ははにかむ。
「約束」
「……うん」
 二人は照れくさそうに微笑み合った。


 依澄の運転する車で駅まで送り届けてもらうと、二人は無人の駅構内へと入った。
 後ろから見送りのために依澄もついてくる。昭宗と朱音は町の集会があるため来れなかった。
「依子」
 姉の声に依子は振り向く。
「なに?」
「……」
 依澄は何も言わず、ただ妹の頭を撫でた。
「……どうしたの? 急に」
 笑って返すと、依澄も微笑んだ。
 何も言わない。
 昨日の饒舌ぶりが夢だったかのように、元の無口に戻っていた。
 だが依子は気にしない。言葉がなくても、姉の心は充分伝わってきた。
 だから、依子は最高の笑みを返した。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 依澄は微笑み、そして頷いた。
 踏み切りの音が聞こえる。電車がやって来る。
「いつか……」
「?」
「いつかお姉ちゃんを助けてあげられるような、そんな人間になるから」
 依澄は首を傾げた。どうやって、と動作で尋ねる。
「例えばお姉ちゃんの仕事の手伝いで、喋れないお姉ちゃんの代わりに商談をするとか」
「――」
 自分の欠点を突かれて、依澄は微かに動揺の色を見せた。
「例えばお母さんに任せっきりな会計を請け負うとか」
「……」
「例えばデジタルに弱いお姉ちゃんに代わって、ホームページを開いて管理・運営するとか」
「……」
「法曹になって緋水専属で雇ってもらうのもいいかもね。田舎だとそういうのにも困るでしょ」
「……」
 依澄は困ったように顔を曇らせた。
 依子はそんな姉の珍しい顔を面白そうに眺める。
「あは、何でも出来そうなお姉ちゃんだけど、結構弱点あるね」
「……」
 依澄はからかう妹の額を猫手でこつんと叩いた。依子はごまかすように笑う。
 大きな音を立てて、電車がホームに入ってきた。
「行こ、マモルくんっ」
「あ、うん。それじゃ、依澄さん」
 依子と守は停車を待って、開いたドアをくぐる。
 振り返って、依子は姉に手を振った。
「私本気だからね。絶対お姉ちゃん助けるからっ」
 依澄も微笑のまま手を振った。
 ドアが閉まる。外から姉が何か言ったような気がした。待ってますと聞こえた気がした。
 電車が動き出す。真横に流れていく駅のホームを、依子はじっと見つめた。
 しばらくして視界から姉の姿が消え、駅も消えた。そして牧村町の景色が現れた。
 依子は座りもせずに、ただそれを眺めていた。楽しそうに眺めていた。
 トンネルに入って何も見えなくなってしまうまで、依子はそうしていた。
 やがておもむろに守に向き直ると、満面の笑顔で言った。
「また一緒に帰ってこようね」
「うん」
 そのときカーブに差し掛かり、電車が大きく傾いて揺れた。
 二人は慌てて吊り革を掴み、難を逃れる。
 冷や汗混じりに顔を見合わせた。
「……座ろっか」
「そうだね」
 恋人たちは小さく笑い合った。


      <了>

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