「鈍いナイフでえぐられるような」と、彼女はそんな表現を使った。
それを言うなら鉄棒や棍棒のような、鈍器の方がより近いのではないかと反論したが、彼女は否定した。
鈍器を押し込まれても痣になるだけだが、行為には血をともなう。ゆえにこの場合はナイフで正解だ。それが彼女の言い分だった。
猥談である。
ついでに言うなら未経験同士の会話である。
実に不毛な会話であったが、もともとそういう話になったきっかけが、童貞と処女、どちらの保有がより大変な思いをするか、という輪にかけて馬鹿馬鹿しい話だったのだから構うまい。それよりも、彼女がこうもあけっぴろげにそんな話をするということに、ひそかに驚いていた。
「長坂さんって変わってるね」
思ったことをそのまま口に出すと、彼女は微かに眉を顰めた。
「……どういう意味」
怒ってはいないと思う。
「いや、こういう話をしてても、あんまりいつもどおりだから、ちょっとびっくりして」
そういう思いも少しはある。
長坂歩美はサークル内でも異質な存在である。製菓研究サークルに所属しながら、甘いものが苦手という致命的な欠陥を抱えていたのだ。友達に誘われて入ったはいいが、その友達は現在休学中で、彼女は一人取り残される形となった。
とはいえ、お菓子作りの手際自体はよく、味見は他の人に任せながら、クッキーやらケーキやらを見事に作り上げていた。俺も何度か口にしたが、なかなかの味だった。
長坂はしかし愛想のいい人間ではなかった。いつも無表情で何を考えているのかわからず、とっつきにくいというのが周りの評だった。
「えーと、ところでなんでこういう話になったんだっけ」
「……あなたが童貞で、私が処女だから、どちらが社会的によくないかとかいう話じゃなかった?」
「いや、その前。それと社会的云々は言ってないから」
「……」
長坂は微かに首を傾げると、しばらく考え込んだ。
やがて、
「ああ、あれだ。そう、和光(わこう)君がため息をついてて」
「……それだ。えっと、長坂さんが訊いてきたんだった。それで俺が『彼女がいない』って話になって」
今朝、友人に新しくできた彼女を自慢されて(なんて痛い奴だ)、そのあとその詳細を別の知り合いに尋ねられて(なぜ本人に訊かない)、それで部室で一人ため息をついていたところに、長坂が現れたのだ。普段はまるで会話などしないのに、俺はつい愚痴をこぼしてしまった。思えばあの幸せオーラに当てられて気が滅入っていたのかもしれない。
「で、そしたら長坂さんも男と付き合ったことがないって話になって、そこから展開したんじゃなかったかな」
「……初体験の際の感覚が男女で違うから、処女の方がより大変だということを私が言ったのね」
そういう流れだった。
そんなくだらない話をしていられるのも、今現在部室に二人っきりだからこそである。
いや、初めて向き合うのに猥談というのもおかしいが。
「『鈍いナイフでえぐられるような』か。そんな感覚はさすがに童貞喪失時にはないだろうしなあ」
俺はうーん、と低くうなった。
「でも、童貞の方がさげすまれるというか、馬鹿にされるよね。処女はそうでもないんじゃ」
「経験の有無はごまかせるじゃない。少なくとも処女よりは。風俗店も男性にはあるし」
「……」
女性向の風俗店も最近はあったように思うが、突っ込まないでおく。
「いや、ごまかせるのかな?」
「ごまかせないの?」
経験がないためにわかりません。大変申し訳ない。
「そもそも処女であることはあまり喜ばれないと思う。めんどくさいでしょう」
「男から見て?」
長坂はうなずいた。
想像する。相手が自分ので痛がっている。それを見ながら、なんとか無難に終わらせられないかと四苦八苦する男。
確かに嫌かもしれない。なんというか、萎える。以前AVの素人もので処女喪失のやつを観たことがあるが、俺に特殊な性癖はないので、正直泣き叫ぶ女性の姿を見るのは苦痛だった。あれは演技だろうが。
なるほど、女性の初めてをもらうというのは、なんとなく嬉しいことだと思っていたが、そう考えると確かにめんどくさいかもしれない。
となると、男女に関係なく、経験不足は喜ばれないということか。
そう言うと、しかし彼女は訝しそうに目を細めた。
「どうしてそうなるの?」
「え? だって童貞を喜ぶ女性はいないでしょう」
「そうとも限らない。肉体的な快楽はともかく、精神的には『初めての相手』になれるのは悪い気はしないと思う」
そうなんだろうか。いやしかし、
「……それは男だってそうだよ。処女をもらえるっていうのは、やっぱり嬉しいものだよ」
俺は女じゃないからわからないが、男の視点で見ると確かにそういう気持ちはある。萎えるというのは相手が痛がる様を見たくない気持ちがあるからで、初めての相手になれること自体はやっぱり嬉しいのだ。
「そうなの?」
「俺はそうだけど」
長坂はそうなんだ、とつぶやくと顔を伏せて沈思にふけった。真面目な顔つきだが、話題が話題なので少し滑稽に見える。いや、馬鹿にしているわけじゃない。どちらかというと好ましく見えた。
予想外におもしろい子だと思った。外面の印象に反して、案外話せる性格のようだ。
長坂が再び顔を上げた。その鉄面皮は変わらない。
「和光君」
「ん?」
「私の初めてをもらってくれないかしら」
「……んん?」
何。
「ちょうどはじめて同士みたいだし、都合がいいから」
「……はあ!?」
俺はようやく彼女の言っていることを理解した。あまりのことに理解が遅れた。
初めて同士で都合がいいから処女をもらってくれ、と。
なんだそれ。
「いや、え、なに、なになに」
「駄目?」
「いや駄目って言うか何言ってんの!?」
困惑そのままに俺は叫んだ。狭い室内のこと、よく響く。自分で叫びながら耳の奥がびりびり震えた。
長坂は少しも動じた様子はない。
「そういうのは好きな相手とするでしょ普通」
「和光君のことは嫌いじゃないんだけど」
「別に好きでもないでしょう」
「まあそれはそうかな」
頭が痛くなる。
「和光君は他に好きな相手がいるの? それなら仕方ないけど」
「……いないけどさ」
「ならいいじゃない」
「よくないよ!」
「何か童貞を取っておく重大な理由があるとか?」
あるわけないだろ。
「そういうのは軽々しく扱わないと思うよ普通」
「でもみんな私たちよりも早く初体験を済ませてる。私たちが彼らより軽々しいとは思わない」
「……俺にどうしろっていうの」
「だから、しないかって」
長坂の言い分はこうだ。
要するに。ここまでの話で、処女を持ち続けることはそこまで有益なことではないということが想像できる。初めての相手には喜ばれるかもしれないが、疎まれる可能性も同時にある。ならば喜ばれる相手にさっさとあげた方が有益だろう。……と、それが長坂の意見だった。
で、その喜ぶ相手が俺。
馬鹿にされてるように思う。
しかし長坂の事務的な口調を聞くと、どうもそういうニュアンスは皆無のようだった。本人は至って大真面目である。長坂的には何もおかしいところはないのだろう。効率とか効果とか、そういう視点で物事を見ているだけだ。そしてそれは俺の価値観の中にない考えだった。
椅子に座る長坂を改めて眺めやる。
服の上からでも起伏が窺えるので、スタイルは悪くないと思う。表情は変化に乏しいが、顔自体が悪いわけではない。目鼻立ちがはっきりしていて俺の好みではある。茶がかったショートの髪も柔らかそうだ。
彼女を抱けるとしたら、俺は素直に嬉しいと言おう。
問題はそこに心が伴わないことで。
「あのさ、俺が相手で長坂さんはなんとも思わないの?」
「なんともって?」
「だって俺のことあんまり知らないでしょ。そんな相手に身を任せて、平気なの?」
「あなたは悪人なの?」
言葉に詰まった。
ストレートすぎてピントぼけしている問いなんて初めて聞いた。
俺は「違う」と答えるが、こんな質問にもちろん意味はない。
「俺たち、まともに会話したの今日が初めてだよ?」
「そうね」
「なのにするって」
「まったく見知らぬ相手ってわけでもないから。あ、それとも私じゃ勃たない?」
思わず絶句する。無表情にそんなことを言うな。
「それなら仕方ないか」
「……そんなことはないけど」
長坂の目が大きく開かれた。
俺はため息を洩らす。
「……長坂さんは俺の好みのタイプだよ。はっきり言うと」
「……そう。それは好都合ね。私も和光君は割りと好ましく思える」
普通なら付き合う付き合わないの方向に行くと思うのだが、彼女はもちろんそうではなかった。
「じゃあ、改めてお願いします。和光君、私とセックスをしてください」
「……」
頭痛が痛い。言葉間違いではない。痛みの上に痛みを重ねるような今の気分に、この表現は適切だと思う。
また嘆息。
「一つ質問。俺が断ったら、長坂さんは他の誰かに頼んだりするわけ?」
「可能性はある。でも私は現状あなたしか対象を知らないから、しばらくはそういうことはしないと思う」
「知らないって……」
一応製菓研に所属している男子は俺以外にもいる。
「他に好ましいと思える相手がいないから」
さらりとそんなことを言う。
まあ好意的に見れば、選ばれたということなのだろう。ひそかに嬉しく思った自分がどこか愚かしくもあった。
長考。
「……わかった。いいよ」
三十秒ほどぐずぐず迷った末に、俺は申し出を受け入れた。
長坂は、じっと俺の顔を見つめてきた。
「どうしたの?」
「いや、受けてくれるとは思わなかったから」
どうやら予想外だったようだ。少しは彼女の内面を揺らすことができただろうか。
「タイプだって言ったでしょ」
「うん……そうだったね」
長坂は席を立つと、椅子の背にかけていたコートを羽織った。俺も部屋を出る準備をする。
たぶんこのまま場所を移して、交わることになるのだろう。内側からばちで叩かれるような、そんな苦しさが胸の奥に渦巻いていた。