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保健室にて


 甘い匂いが鼻をくすぐる。
 温かい感触が頭痛を和らげる。
 不思議な心地よさと共に目を覚ますと、そこはベッドの上だった。
 ああ、確か五時限目が始まる前に頭が痛くなって、保健室に来たのだ。ちょっと熱だけ計るつもりだったのだが、足がふらついたのでそのままベッドを借りたんだった。
「……ん?」
 なんだか妙に狭苦しい。ここのベッドってこんなに小さかったっけ。
「んん……」
 か細い吐息を耳元に感じた。
 頭を右に向けると、見知った顔が間近にあった。
「うわっ!」
 ぼくは驚きのあまりベッドから落ちそうになった。
「んん……あおくん?」
 彼女がゆっくり体を起こす。
 保健医の仲村先生が跳ね起きたぼくをぼんやりとした目で見つめてきた。
「おはよ、青くん」
「な、仲村先生、何してるんですか?」
 問いかけると彼女は不満げな顔になった。
「……」
「あの、仲村先生?」
「名前で呼んでくれなきゃやだ」
「はい?」
「二人っきりなんだから、名前で呼んで」
「……伊月さん」
 仲村伊月──ぼくより六つ上の幼馴染みはそれを聞くとにっこり笑った。
「うんっ、何?」
「いや、なんでベッドの中に?」
 尋ねると伊月さんはえへへ、と目を柔らかく細めて、
「職員室から帰ってきたら青くんがベッドで眠ってたからつい」
「あ、そっか。ごめんね、勝手にベッド借りて」
「ううん、いいよ。青くん体弱いし、疲れてるときはきちんと休まないとね」
「……じゃなくて!」
 説明になってない。
「なんで同じベッドに入ってたの!?」
「え? だって添い寝をするのは私の役目でしょ?」
「寝ている男の布団に潜り込むのを添い寝とは言わない!」
「じゃあ同衾」
「もっと駄目!」
 言葉としては間違ってないけど、何か間違っている。大体、添い寝が役目ってなんだ。
 伊月さんは不安そうに表情を曇らせた。
「そんなに迷惑だった?」
 上目使いに見つめられて、ぼくはつい目を逸らした。この目には弱いのだ。
「い、いや、迷惑なんて思ってないけど……ちょっとびっくりしたから」
「本当? 本当に迷惑じゃない?」
「うん」
 よかった、と呟くと、伊月さんは唐突に抱きついてきた。
 ぼくは慌てて受け止める。柔らかい胸の感触にどぎまぎする。
「……えっとね、青くんが苦しそうだったの」
「……え?」
「青くんが苦しそうな顔してるから心配になって、でも熱もなかったから変な夢でも見てるのかなって思って、一緒に寝てあげたら少しは気分もよくなるかもって思ったの」
「……」
「私は青くんにくっついたりぎゅってすると安心するから、青くんにも安心してもらいたかったの。だから……」
 ぼくは言葉に詰まった。
 ただ甘えているだけじゃなかったのか。
 伊月さんはちょっと幼さが目立って、でもいざというときはやっぱり年上なんだと感じさせるところがあって、ぼくにとってとても大切な人だ。
 そう、改めて思った。
「ありがとう」
 詰まった言葉を丁寧に彼女に向けて発すると、伊月さんは体を離して顔を上げた。
「もう苦しくない?」
「うん。だいぶ楽になったよ」
 気分は悪くない。頭痛もひいている。ぼくはベッドから出ようと手に力を入れて、
 ぴとっ。
 額に額をくっつけられた。
 目の前数センチ先に伊月さんの綺麗な顔が映る。
 両頬に添えられた手の平と、間近に感じる息遣いがひどく温かい。
「い、い、伊月さんっ!?」
「うん、やっぱり熱はないみたい。よかったね」
「あの、あの、」
「どうしたの?」
 小首を傾げる。額はもう離れているが、それでも両手はこちらの顔を挟んだままで、顔の距離もほとんど離れていない。
「伊月さん、近すぎだからもうちょっと離れてくれるかな」
 ぼくはできるだけ平静な調子で言った。
「え? 近いかな?」
 天然かこの人。
「いつまでも寝ているわけにはいかないから」
「無理しないで休んでればいいのに」
「授業サボるのも悪いし……」
「もう放課後だよ」
「……へ?」
 慌ててポケットから携帯を取り出すと、既に時刻は午後五時を過ぎていた。
 四時間近く眠ってたのか……。
「やばっ、じゃあ早く帰らないと」
「家には連絡しといたから慌てなくても大丈夫だよ」
「……なんでそんなに周到なんですか」
 呆れ声で尋ねると、伊月さんは嬉しそうに笑った。
「だって、久しぶりに二人っきりになれたんだもん」
「…………」
 とびっきりの笑顔にぼくは押し黙る。
 この笑顔にもぼくは弱い。より正確に言うなら、伊月さんのやること全てにぼくは弱い。
 そんなの当たり前だと思う。ぼくの心はずっと昔からこの幼馴染みに捕われているから。
「えいっ」
 笑顔に惑っているうちに、ぼくは伊月さんに押し倒された。
「い、伊月さん」
 伊月さんは時計を確認してうん、と頷いた。
「ここを六時に出るとして、あと四十分はゆっくりできるね」
 そう言って、ぼくの首に両腕を回してくる。
 甘い香りはたまらなく刺激的で、ぼくは頭が沸騰しそうだった。
「……伊月さん」
「何ー?」
「狼になってしまいそうです」
「じゃあ私はかわいい赤ずきんだね。青くんに食べられちゃうのかな?」
 確かに赤ずきんにはそういう教訓話も含まれていたりする。ペロー版の赤ずきんだったような覚えがあるけど。
 でも今のぼくの理性とは全然関係ありません。
「駄目だよ青くん」
 伊月さんが諭すように言った。
「私は別に青くんに食べられちゃってもいいけど、今はダメ。だって時間ないもん」
「……四十分もあれば一回くらい」
「そんなのイヤ。どうせならいっぱい気持ちよくなりたい」
「……どうしろと?」
「私をぎゅってして。あと、キスもしてほしい」
 なのに手は出すなと。生殺しですか。
「そんな、」
「我慢できたら、今度私を一日好きにしていいから」
「…………」
 今までに伊月さんの体を何度か抱いたことがあるけど、いつも主導権は伊月さんにあった。
 たまには、
「……頑張ります」
「頑張ってね、狼さん」
 伊月さんは楽しそうに微笑むと、キスを求めてきた。
 深く唇を重ねると、赤ずきんは陶酔したように悩ましげな声を上げた。

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