その異常に気づいたのは、ちょうど県大会が終わって数日経ったころだった。
朝、ベッドから起き上がろうとしたときに、妙に脚が痺れて重く感じたのだ。
最初は筋肉痛かと思った。昨日は体育でたくさん走ったから脚が疲れていて、それで動きづらくなっているのだと。
そのときは気にせずさっさと準備をして登校したのだが、脚の痺れは数日経過しても取れなかった。いや、それどころかどんどん悪くなっていった。
1週間ほどすると、つま先に力が入らなくなった。かかとに体重を預けないと倒れそうになるので、歩き方がぎこちなくなった。
当然、弓道どころではなくなった。立つことすらままならないのだ。弓を引く以前に、的前に立つのも困難になった。
明らかに筋肉痛ではなかった。疲労とも考えにくい。私は近くの病院に行き、診察をしてもらった。しかし原因ははっきりせず、隣町のもっと大きな病院を紹介された。
そこを訪れたとき、私はもう自力では歩行できず、車椅子での移動を強いられていた。神経科に通されて、言われるがままに奥の一室のベッドに横になると、壁や天井を覆う白色が私の日常を塗りつぶしていくような、そんな錯覚にとらわれた。自宅よりも高い天井や広い空間に慣れなくて、ひどく焦燥感を煽られているような気がした。
ベッドの周りで看護士の人たちがせわしなく動いていた。その中で1人だけ白衣を着た男が、死刑宣告を下す裁判官のように重厚な空気をまとって、黙々と私の体を調べていった。背中に大きな注射をされた。髄液を取るために脊髄に針を刺すのだそうだ。麻酔によって痛覚は鈍らされていたのだが、それでも体を支える大事な部分に太い針が通される感覚をはっきりと感じた。骨をえぐられるような、削られるような、ゴリゴリとした感触に私は恐怖した。
30分ほどかけて処置が終わる頃には、私は精根尽き果ててぐったりとなっていた。ベッドに寝かされたまま個室に移動すると、そこで説明を受けた。検査結果はまだ出ていないが、どうやら神経に何らかの異常が見られるらしい。そんなことはわかりきったことではないかと内心思ったが、詳細を聞くといろいろ複雑な話らしかった。
可能性として考えられる病気は2つ。
1つは、簡単に言うと手足に力が入らなくなる病気だ。動物は病気にかかると体の中に抗体を作り出してウイルスや細菌に対抗しようとするが、まれにその抗体が異常をきたし、自分の神経を攻撃してしまうことがあるという。手足などの末梢神経から始まって、そこから肘膝へと徐々に炎症部位が広がっていく。ひどければ胴体にも異常が表れて、内臓機能の低下などの恐れが生じる。最悪心臓が止まるかもしれない。――そういう病気があると言われた。
全然実感が湧かなかった。たしかに手足に異常はあるけど、そんなに深刻な病気だとはまったく思えなかったのだ。
この病気の特徴は、一度ピークを迎えてしまえば、徐々に回復していくというものだ。必ずしも全快するという保障はないらしいが、ぶり返す類の病気ではないらしい。半年で復帰したプロスポーツ選手もいるらしく、リハビリを続けていけばまた弓道ができるようになるかもしれない。
問題はもう1つの病気の可能性だった。症状は1つ目の病気とほぼ変わらない。前者と違う点は、その症状が慢性的なものだということだ。症状には波があり、回復の兆しを見せても再び悪化する恐れがあるという。その原因は未だに不明で、現在も研究が進められているそうだが、根本的な治療法はない。
後者だった場合、弓道どころではない。日常生活に復帰できるかどうかさえ危ぶまれる難病だ。
それを聞いてもまだ実感はなかった。自分とは無縁の話をされているようにしか思えなかった。しかし医師の声に耳を傾けているうちに体が冷たくなっていくような、そんな恐怖感にとらわれ始めた。柔らかい口調ながらも、その裏に彼の戸惑いが潜んでいることを感じ取ったのだ。私の病気は、医師でさえ扱いに困るものらしい。
前者ならいい。リハビリを重ねていけば元に戻る可能性がある。だが、後者だったら?
私の病気は果たしてどちらなのか。経過を見ないと判断できないらしく、しばらく私は不安な日々を過ごすことになった。
ピークを迎えたのは10日後だった。
症状が回復に転じ、私は安堵した。入院2日目から5日間特殊な点滴を受け続け、不便を強いられていたからなおさらだった。
それからはしばらく回復傾向にあった。指を動かすこともできなかった足が、手すりにつかまりながら体を支えることに成功した。それから2日後には、松葉杖を使って歩けるようになった。
これならいける。1日も早い復帰を目指して、私は真面目にリハビリに取り組んだ。人間の体はよくできていて、1つの筋肉が衰えても別の部位の筋肉がそれを補おうとする。普段使わない筋肉を鍛えることで、日常の動きを取り戻すのがリハビリの目的だった。
リハビリは主に2種類に分けられる。理学療法と作業療法だ。前者は歩いたり、自転車をこいだり、階段を登ったりといった、基本的な身体動作を求められるリハビリで、後者は物を書いたり、箸を使ったり、ジグソーパズルで遊んだりといった、日常の細かい行動に則した複合的な動作を求められるリハビリである。それぞれ担当の療法士が違うので、別々に行われる。
杖をつきながらフロアを1周して、リハビリ室に戻ってくる。ただそれだけのことをするのに20分くらいかかってしまう。しかし歩けるだけましというものだった。ここに担ぎ込まれたときは立つことすらままならなかったのだから。
弱すぎて計測不能なほどに落ち込んだ握力も、15kgまで戻った。まだ指先に力が入らないが、箸さえ使えなかった当初に比べるとだいぶ回復した方だ。
そのときの私は、おそらく無意識に満足の基準を下げていたのだと思う。
立てる。歩ける。動ける。そんな中途半端な状態でも、回復は回復だったから、そのプラスの面に飛びついて喜んでいたのだ。だがそれは、自分のことを客観視できていなかったということだ。
病気の再発は、気づかぬうちに起こっていた。
少しずつ、夜闇が光を飲み込んでいくように、神経が徐々に侵されていく。病気の進行はひどく緩やかだった。ほんの小さな疲労感や脱力感が私の体を覆っていく感覚を、どのように言い表せばいいだろうか。今日はなんだか調子が悪いな、昨日がんばりすぎたせいかな、そんな程度の感覚しかないのである。神経が鈍っているために異常を異常と認識できないのだ。その疲労感が病気の再発からくるものだと認識するのに、2週間もかかった。
いや、本当は気づいていたのかもしれない。しかし私は現状から目を背けてしまった。再発を認めるのが恐ろしかったのだ。
それでも、急激な筋肉の衰えに、医師の目はごまかせない。
どちらの病気なのか、結論は出た。私の病気は慢性的な、より難病とされる後者の病気だった。
これを治す方法は、現在の医療には存在しない。その現実を突きつけられて、私は力の入らない四肢を投げ出して虚空を仰ぐことしかできなかった。
再び点滴を打つと症状は和らいだ。しかしこれは対症療法に過ぎず、病気を根本から治すわけではなかった。その上、使っている薬は非常に高価なものだから、今後は幾分安価なステロイドを服用することになった。経口薬なので手間いらずだが、一方で副作用の危険もあるという。それでも現時点では一番効率的な方法なので、仕方ないと割り切るしかなかった。
ステロイドは私に合っていたようで、それからは症状も安定するようになった。しかし握力は元に戻らず、箸を使うことが少し億劫になった。移動もリハビリ以外は再び車椅子を遣うようになった。
これまで当たり前のように行ってきた日常の行動が、ことごとく制限されていく。私はリハビリを続けながら、なかなか復調の兆しを見せない自分の体に苛立ちを隠せなかった。
自分の体なのに、どうして言うことを聞かないのだろう。あんなに元気だったはずなのに。16キロの弓を引き分けるだけの力が、この身にはちゃんと備わっていた。なのに、どうして。
それでも平静を保たなければならなかった。いつもお見舞いに来てくれて、身の回りの世話をしてくれる父と母の前で、弱音は吐きたくなかったからだ。それに、少しでもこの苦しみを外側に漏らしてしまうと、二度と立ち直れない気がした。
そのまま季節は過ぎ行き、夏休みも終わろうとしていた8月の下旬。
盆を数日過ぎた頃、“彼”がやってきた。