正鵠を射るために・1(6)
◇ ◇ ◇
「ん……そのうち、また始めるよ。今はまだ、ちょっとな」
「まだ、ですか。なら、せめて道場に顔くらいは出してくださいよ。みんな待ってますよ」
「……今は無理だ」
「どうして」
……少しだけ、苛立った。
自分の手をじっと見つめた。指を何度か曲げたり伸ばしたり、軽く動かしてみる。
ぐっ、と拳を握ってみる。
感覚が薄くなった手のひらでも、指先の弱々しさをなんとなく感じ取った。
「今の私の握力は、たった10キロしかない」
彼の体がびくりと震えた。
「それはあくまで手首に近い部分を使った結果だ。実際はもっと弱いかもしれない。特に指先は、かなり衰えている。この間まで箸もうまく扱えなかった。つまむ力……ピンチ力というそうだが、これがかなり弱っているんだ。指先だけじゃない。足先もだいぶ弱っている」
彼の肩がかわいそうなくらいに落ち込む。
こんなことを言いたかったわけじゃない。私は君に、ただありがとうと言いたくて、
「要するに、手足がまともじゃない。退院したといっても、神経系には依然として異常が残っている。全身の筋肉が落ちて体幹も弱くなっているから、歩行も気をつけないといけない。まだリハビリは続けていかないとダメだし、薬も飲んでる。ステロイドだ。副作用もあるらしい。幸いにもまだ表れていないが」
だけど、ひとたび口を開いてしまったら、もう止まらなかった。
ずっと入院していた。
彼が定期的に見舞いに来てくれたことがとても嬉しかった。
でも、病気の詳細は話せなかった。この先どうなってしまうのか、医者ですらわからなかったから。
「弓道は好きだよ。しかし、今の私には弓を引くことができないんだ。弓は腕力だけで引くものではない。かといって、まったく力を使わずに引くこともできない。そんな状態で弓道場に行ったら、どうなる? 他の部員に迷惑をかけるだけじゃない。きっと、他のみんなを羨ましく思うんだ。当たり前のように弓を引ける彼らを、激しく妬んでしまうかもしれない。そして自分に絶望するかもしれない。それが怖い。見られたくない。……今は道場に行けない」
苦々しい表情を浮かべながら、何かをこらえるように彼は黙っていた。
それを見て、私も歯噛みする。落ち込ませたかったわけじゃない。
「……温泉宿に来たんだ。今は楽しもう。ほら、もうすぐ夕食の時間だ」
君に楽しんでもらえれば、何より嬉しい。
だから、そんな顔はしないでほしい。
◇ ◇ ◇
その後の空気は、随分とぎこちなかった。
食堂でとった夕食は抜群の美味しさだった。新鮮な山菜を使った料理はどれもすばらしく、炊き込みご飯が特にいい出来だった。
しかしその旨さも、お互いの間に漂うぎこちない雰囲気の中では、どうにも上滑りしていくようで、心底から味わえた気はしなかった。
その空気が払拭されることはなく、夕食は静かに終わった。
部屋に戻ってもそれは変わらず、私たちはそのまま早めに寝ることにした。
まともに彼の顔を見られない。
失望させてしまっただろうか。私は、ずっと彼の前では、みんなの前では、模範となれるようにそれ相応の振る舞いをしてきたつもりだ。その私があんな弱音を吐いてしまった。言うべきではなかったのに。
でも。
あれは私の偽らざる本心なのだ。だからこそ適当にごまかすことなんてできなかった。
弓道は、好きだ。
しかし今の状態で部活に顔を出したら、私はきっと弓道を嫌いになってしまう。
それだけは、絶対に避けたかった。
電気を消して、仲居さんが並べてくれた2つの布団に、私たちはもぐりこんだ。
彼が小さく囁いた。
ごめんなさい、と。
それは私の台詞だ。こちらも同じ言葉を返そうとしたが、隣から寝息が聞こえてきたので、口をつぐんだ。思わずため息をついてしまう。
起きたときに、もう一度謝ろう。
そう決めて、私は彼に向かって囁いた。
明日は楽しい旅行になるよう、がんばるから。
おやすみ。それだけを暗闇の先の彼に投げかけて、私は目を閉じた。
しばらくは、眠れそうになかった。