元来た道を辿って森から出ると、頭上に気配を感じた。
依澄は咄嗟に傘を投げ捨て、横に転がるように倒れ込んだ。上から降ってきた刀が直前まで立っていた空間を鋭く斬り裂いた。
刀は続け様に横凪ぎの一閃を繰り出して襲いかかってくる。
倒れこみながらも一呼吸の準備を整えた依澄は、
『――迷え』
ささやいた。
すると刀は目測を誤ったかのように、見当違いな方向を斬りつけ始めた。
その隙に、立ち上がって駆け出す。
刀は酔っぱらったように周りを旋回していて、まともに追ってこられない。
依澄は駆けながら、高鳴る心臓を僅かな呼吸で抑えつける。緊張が深い。
術と言霊の併用で今のようにめくらましくらいはできる。しかし依澄には、刀そのものを相手取ることができない。
相手は日本刀という、物理的な威力を誇る存在である。いわば武力暴力を振るう類。対して依澄は、それに対抗できる暴力を持ち合わせていない。彼女はあくまで巫女であり、霊能者である。暴力は専門外なのだ。霊的な対処しか彼女にはできない。
まともに相手をしないのが得策だ。刀に憑いている悪霊に直接働きかけるのが望ましいだろう。しかし準備はまだ整っていない。
応援を呼んでいる暇はなさそうだ。依澄は電話を探すのを諦めて、刀と対決することにした。
迎え撃つにはもう少し開けた場所が望ましい。集落地や森の中ではなく、辺り一面を見渡せるような平野が。
依澄は駆け出す。木々に囲まれた山道からアスファルトで舗装された公道に出る。決して整ってはいない凸凹の目立つ道路を駆け抜ける。たどり着くまでにどれくらいの時間がかかるだろう。刀はまだ追ってきてはいないだろうか。背中の向こうから今にも斬りかかられそうな、そんな重圧を感じる。
当たり前だが、斬られたら死ぬ。
そのことに依澄は恐怖する。
死は怖い。周りの人が悲しむから。
依澄は人のために生きている。誰かのために命を投げ出すことを厭いはしない。だが、無駄死にだけは避けなければならない。この命は誰かのために使ってこそ意味がある。なにより、自分には大切な人たちがいる。こんなところで死んでしまったら、その人たちに申し訳が立たない。
今できることを全力でやり遂げる。依澄は着物の裾を持ち上げながら、懸命に走った。もっと動きやすい服が望ましかったが、持ってきていないので仕方がなかった。着物は普段から着慣れているが、やはり荒事には向かない。
集落の真ん中を突っ切って、村の入り口方面へと向かう。昨日、ここに来るときに確かに見た。
幸い、途中で追いつかれることなく目的の場所にたどり着いた。もちろん油断はできない。依澄はすぐさま態勢を整える。
そこは畑だった。普段は何を栽培しているのだろう。農作物の知識に乏しい依澄にはわからない。目立った作物は見当たらず、雪景色が一面に広がっているだけだ。
周りに視界をさえぎるものはない。ある程度気配を感じ取れる依澄なら、相手がどこから襲ってきても対処できる。刀そのものではなく、とり憑いている霊に目を向ければ――
果たして、それはやってきた。
真正面からだった。何の小細工もなく、鈍色の切っ先が依澄に向かって矢のように飛んできた。その速さは飛燕の如しで、普通ならよけるどころか、視認することも困難だっただろう。
依澄はよけなかった。
ただ、静かに口を開いた。
『――止まれ』
刀の突進が止まった。
言霊による拘束は強力だった。刀は凍りついたように依澄の目の前1メートルの地点で止まり、動けずにいた。
依澄はその刀の柄の部分を見つめる。
柄を“握っている腕”を見据える。
その刀は、いわゆる付喪神の類ではなく、とり憑いた悪霊が操っているようだった。目を凝らしてみると、依澄にはその刀を握り締める男の姿が見える。
腕から肩に。肩から胴に。胴から頭に。
そして最後にその全身を見やった。
壮年の男だった。背はそこまで高くない。着流し姿で、長い髪は整えられておらず、ぼさぼさだった。
古い時代に生きた人間であることは、すぐに察しがついた。そして彼こそ、この刀の持ち主だとも。
依澄は思わず息を呑んだ。
その男から凄まじい妄執が伝わってくるのだ。重圧などというレベルではない。これは「その経験」があるものしか持ちえないであろう、強烈な怨念だった。
殺気。
もしかしたら現代人には備わらない類のものかもしれない。あまりにも時代錯誤な念を発している。
これは恨みではない。妬みや嫉み、僻みといった、ありふれた負の感情ではなかった。
この男は――