神守市から電車で三時間のところに依子と守の故郷、緋水がある。
緋水とはその土地一帯の俗称である。正式な地名を言うなら牧村町という実に平凡な名があるが、地元民には緋水の名で通っている。
かつて土地の神を慰撫するために、一人の女性が血水と化してその身を捧げた、という故事が由来だ。
周囲を山に囲まれた綺麗な土地だが、交通の便は悪い。牧村駅は無人駅で各駅停車の電車しか停まらず、バスも一時間に一台しか通らない。
だから、二人が緋水に到着する頃には、時計の針は夜九時を回っていた。
夜気に冷えた体を依子は震わせる。吐く息は真っ白だ。上空に寒気が流れ込んでいて、明日の夜には雪が降るという話だった。
寂しい夜の駅前に一台の車がやって来た。暗闇の中で明るく映える白い車は、依子たちの前でゆっくりと停車した。
運転席から顔を出したのは和服姿の依澄だった。その格好でいつも運転しているのだろうか。
二人は後部座席に乗り込む。それを確認すると、依澄は慣れた手付きで発進させた。
依子は落ち着かなげに外の景色を見渡す。八年振りの故郷は、何も変わっていなかった。
隣の守が囁く。
「二年ぶりかな、ここに帰ってくるのも」
「……あんまり変わってないね」
闇の中、周りに広がるは畑ばかり。遠くに見える民家の明かりは片手で数えられた。そのくせ道々の常夜灯だけはしっかりと強い光を放っていて、運転には困らないようだった。
心がひどく浮き立った。
不意に依澄が尋ねてきた。
「体は……大丈夫ですか?」
咄嗟に反応できず、依子は慌てた。
「え……あ、えと、う、うん、大丈夫……だと思う」
「……よかったです」
依澄の声は安堵に満ちていた。
それを聞いて依子は少しだけほっとした。同時にとても嬉しく思った。
三十分後、車はようやく目的地に到着した。
山の田舎のど真ん中、不釣り合いに立派な門扉が鎮座ましている。
離れのガレージに車を入れ、三人は降りる。そこから先程通り過ぎた玄関へと向かった。
懐かしい門扉は昔からの記念碑のように変わらなかった。呼び鈴を鳴らすと備え付けのインターホンから声が響いてきた。
『はーい、三人とも入り口にいるわね、ちょっと待ってて』
底抜けに明るい声が聞こえた瞬間、依子は顔を強張らせた。
そして門扉が開くと同時に明かりがつき、中の空間が開けた。
そこには和服を着付けた女性が立っていた。
美しい人だった。見た目は二十代と言っても通用する。背は依子と変わらない。薄い化粧は柔らかな白い肌に馴染んで、セミロングの黒髪が対称的に明るく映える。
依子は――うまく言葉が出なかった。
するとその淑女がゆっくりと近付いてきた。
咄嗟に反応できない依子の目前に歩み寄ってくる。
そして、依子はそのまま抱き締められた。
一瞬で息が詰まった。懐かしさと切なさ、混交した感情に胸が張り裂けそうになる。
「おかえりなさい、りこちゃん」
依子の母、緋水朱音(あかね)は包み込むような声で囁いた。
明日また改めて挨拶に来ます、と近所に居を構える遠藤家へ守が戻るのを見送ると、依子は母姉と共に屋敷内へと入った。
石畳から玄関へ入ると、そこには冷たい木の匂いが広がっていた。靴を脱ぎ、朱音に続いて長い廊下を歩く。板張りの床がぎしりと音を立てた。
小さい頃にも思ったことだが、この屋敷は広すぎる。昔は大勢の使用人を抱えていたために多くの部屋が必要だったらしいが、今は使用人自体数人しか抱えていないらしい。それは八年前と同じだった。
町の会合や客人の宿泊に使うこともあるらしいが、基本的には使わない部屋ばかりだ。
夜の屋敷は寂しく、怖かった。
「昔はりこちゃんもこの家の中でかくれんぼしてたのよね」
母に言われて依子ははっとなる。
「すみちゃんやまーくんといっしょにいろんなところに隠れたりしてたものね。憶えてる?」
憶えている。依子は小さい頃の情景を思い起こした。
「でも、あれは昼間だったよ。夜とは違う……」
「そうね。怖いもんね。一応結界張ってるから変な悪霊さんとかはいないはずなんだけど、暗いとやっぱりいやな感じするよね」
「べ、別に怖くはないけど」
それを聞いて朱音はおかしげに笑った。
「……何?」
不満顔で返すと、朱音は首を振った。
「なんでもない。りこちゃんかわいいな、って」
「――」
屈託のない笑顔でそんなことを言われたせいか、自分でも顔が赤くなるのをはっきり自覚した。
「さ、こっちよ」
構わず促された部屋に依子は入る。
通された部屋は小さな六畳の和室だった。明かりがつき、真っ白な障子と薄草色の畳が目の前に広がる。
「荷物を置いたら食事にしましょう。お母さん、今日は腕によりをかけて作ったから」
「うん」
小さな旅行鞄を隅に置き、依子は居間へと向かった。
居間には大きな卓の上に、温かい料理が並んでいた。
ご飯、すまし汁、鰤と大根の煮付け、鶏の唐揚げ、二種類のサラダ、蛸とわかめの酢の物、ひじきの和え物に茄子の漬物もある。
そして卓のすぐ横には、母と姉以外に見知った顔があった。
顎に薄い髭を生やした中年の男性。
男性は微笑するとおもむろに近付いてきた。
依子は心臓の早鐘に押されるように、慌てて口を開く。
「ただ」
「おかえり。依子」
穏やかな優しい声に、依子の言葉は遮られた。
「待っていたよ。寒かっただろう。さ、こちらに座りなさい」
父――緋水昭宗(あきむね)の、八年前と変わらない声。
どうしてこんなにも変わっていないのだろう。依子は言葉が出なくなる。細かいことを言えば、お父さん白髪やしわも増えたしいろいろあるけれど、でも、
ぽん、と肩を叩かれた。
横を見ると、依澄が小さな微笑を浮かべていた。
その表情はあまりに小さな変化だったが、とても嬉しそうに見えた。このときばかりは姉の不可思議さが氷解したように映った。
次いで、父と母の顔を見る。
二人とも心からの笑みを浮かべていた。まるで大切な宝物を取り戻したような、そんな笑顔だった。
依子はくっ、と一瞬だけうつむき、すぐに顔を上げた。
「――ただいま」
渾身の笑顔だったと思う。
それから依子は再会した家族と楽しげに食事を囲んだ。
昔の思い出から互いの近況に至るまでたくさんのことを話した。久し振りに食べる母の手料理に舌鼓を打ち、父の穏和な話しぶりに耳を傾けた。
依子は揺れる。目の前に広がる縁のない世界で、それでも楽しくあることに。
縁視の力を失って。でもそれを吹き飛ばすかのような幸運を得て。
喪失感と充足感が入り混じる今の心境に戸惑いつつも、依子はただ嬉しかった。同時に少し寂しかった。
家族との縁を、この目できちんと見ておきたかったから。
夕食後、お風呂に入って髪を乾かして歯を磨いて、そして依子は床に着いた。
不安を煽った暗がりが、今はたいして気にならなかった。暗い方が縁のない世界を見なくて済む。
意識が落ちる直前、いとこのことが思い出された。
不安が薄くなったように思えた。