始業式の日、静梨は夏休み前と同じ笑顔で登校した。
一部の事情を知っている友達は明るい様子に唖然としたが、立ち直った静梨に気を遣うことなく触れ合った。
いとも簡単に、静梨は日常へと戻ることが出来た。
午前中だけの式も終わり、静梨は帰宅の途に着く。
校門を抜けようとしたところで呼び止められた。
「水本」
振り返ると、同級生の森嶋佳孝が小さく手を上げていた。
少しだけ、心拍が上がった気がした。
「森嶋くん」
声は普通に出た。
佳孝は少し緊張しているようだった。
「あの……」
「ここじゃ目立つから、隅に行かない?」
人気のない校舎裏で二人は向き合う。
「ごめん、水本」
最初の言葉は謝罪だった。
「……何が?」
なんとなくわかっていたが、一応尋ねる。
「事件のことだよ」
「やめて」
予想通りの答えに静梨は言葉を遮る。
「あれはあなたのせいじゃない。あなたに謝ってほしいのはもっと別のこと」
「え?」
瞬間、静梨は右手を振りかぶり、無防備な佳孝の左頬にたたらを踏むほどのビンタを叩きつけた。
女の子らしからぬと自分でも思う一発に、佳孝は反射的に打たれた箇所を押さえる。
佳孝は絶句したまま固まっている。
「はい、これでおあいこ」
静梨はにっこり笑って言った。
「おあいこ……?」
「そう。これ以降あの日のことを蒸し返したら、二度と口利かないから」
「……わかった」
静梨は楽しそうに笑む。
「なんで叩いたかわかる?」
「え? ……いや」
「森嶋くんが私の大切なものを奪ったからだよ」
「……?」
人差し指を立てて静梨はゆっくりと答えを教えた。
「ファーストキスだったんだ、あれ」
「!」
「だから私は怒った。おもいっきりひっぱたいた」
「……」
呆然となっている佳孝に、静梨はまた笑う。
「なんてね」
あんまり深刻に考えない方がいいこともある。
「そういうことにしとこ? 私は森嶋くんにファーストキスを奪われたから怒った。それでいいじゃない」
佳孝は目をしばたたかせていたが、やがてぎこちなく頷いた。
「……ごめん。初めてのキス、奪っちゃって」
「本当だよ。ビンタ一発で許してあげるんだから、感謝してよね」
冗談めかした静梨の言葉に、佳孝は微笑んだ。
「……でも、俺は諦めないから」
「何を?」
「これからも水本を好きでいるってこと」
二度目の告白をしてくる同級生を、静梨はまじまじと見つめる。
守は静梨の想いを認めてくれた。一番じゃなくても、想いを寄せたり寄せられたり、それは決して悪いことじゃない。
そんなたくさんの想いが、その人を支えてくれると思うから。
だから私も認めてやろう。静梨は胸の裡で呟く。佳孝の想いも守の想いも、それぞれで認めてやろう。守がそうして見せたように。
だからといって、
「私には他に好きな人がいるんだけどなぁ……」
困ったように静梨は一人ごちる。簡単には割り切れないのも確かだ。
「でもその人も他に好きな子がいるし……片想いって切ないね」
片想いの相手からそんなことを言われて、佳孝は小さく苦笑した。
「まったくだ」
その同意に、静梨はおかしそうに笑った。
「マモルくん」
スーパーを出たところで守は依子と出くわした。学校帰りなのか制服姿だ。
「……またカレー?」
買い物袋の中身を見て、依子は呆れた声を出す。
「作ってくれる?」
「いいけど……今から?」
「学校終わったんでしょ」
依子が頷き、守は嬉しそうに微笑む。そのまま並んで歩き出す。
長い八月はもう終わってしまった。これから長い冬へ向けて、季節は移ろいゆく。まだまだ残暑は厳しいが。
「今度さ、実家に帰ろうと思うんだ」
「実家……緋水の家に?」
「うん。一応跡取りだから、色々話し合っておく必要があるんだ」
「そうなんだ。いつ?」
「冬」
「なんだ。まだ先だね」
「一緒に行かない?」
依子は目を見開く。
守は微笑み、
「依子ちゃんはさ、将来どうするの?」
「……まだわからない。私は本家にいられなくなったから、でも……」
「結婚とかは?」
依子はおかしそうに笑った。
「いきなりどうしたの?」
「興味あるから」
「相手がいないよ。……でも、それもいいかもね。私をもらってくれる人いないかなー」
「じゃあ尚更実家に来てもらわないと」
「? どういう意味?」
「うちの親に挨拶してもらいたいから」
「何それ? マモルくんと私が結婚するみたいじゃない」
「イヤ?」
「…………え?」
守が笑って何かを囁いた。それを受けて依子が珍しく慌てふためいている。
夏の終わりを告げる風が、空を駆け抜けていった。
季節はもうすぐ秋を迎えようとしている。
草むらでバッタが一匹、キチキチと音を立てた。