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縁の傷 沈黙の想い・1


 神守病院301号室。
 遠藤守(えんどうまもる)は小さな丸椅子に腰掛けて、左右の手を細かく動かしていた。
 右に包丁、左にりんご。膝上の皿に赤い皮が、しゃりしゃりと音を立てて落ちていく。なかなかに器用な手つきだ。
 守の目の前には大きなベッドがある。
 そして、その上には無表情な少女の姿。
 顔立ちは綺麗だった。しかし左の頬には大きなガーゼが、頭部には真っ白な包帯が巻かれており、逆に痛々しく映る。
 顔だけではない。右の手首、左の前腕、左右の内太股、左腹部と、それぞれに傷を負っている。打撲で痣がひどく、全身包帯巻き。肋骨と右手首にはヒビまで入っていた。
 守は剥き終えたりんごを、皿の上で丁寧に切り分けた。皮をごみ箱に捨てて、爪楊枝を一本、横の棚から取り出す。
「はい、静梨(しずり)ちゃん」
 少女の名を呼ぶと、ベッドのパイプに橋渡しされている食事用の台に皿を置いた。
 しかし少女は、その声に反応を見せなかった。
 目にはあまり光がない。ややうつ向いた顔に生気はなく、視線は何にも向けられていない。
 守は顔を背けたくなった。見ていて心が痛くなる。
 心を強く張ってもう一度呼び掛けた。
「静梨ちゃん、食べたくないの?」
 はっ、と顔を上げる。呼び掛けに気付いていなかったのか、目を丸くしている。
 しばらくして、首が微かに横に振られた。
 おずおずと左手を伸ばし、爪楊枝を掴む。傷が痛むのか、腕の動きはかなり緩慢だったが、きちんと自分の口にりんごを運んだ。
 しゃく、しゃく、とこれまたゆっくりとしたリズムで果実を齟齣する少女。まるで機械のように無機質だ。
 何の感情も流れていないかのような表情だが、守はほっとした。きちんと反応を返してくれたことが嬉しかった。
「おいしい?」
 尋ねると、少女は小さく頷いた。


 遠藤守がその少女に会ったのは三日前のことである。
 守はその日、朝早く図書館へと向かっていた。
 大学が後期に入るのは九月下旬。まだ一ヶ月以上もあり、バイトも基本的には忙しくない。課題も特になく、時間は腐るほどある。
 なのになぜ図書館なのか。せっかくの夏休みなのだから他にもっとやれることはあるはずだが、彼はここ最近毎日通っていた。
 別に深い理由はない。守はただ、昔から本が大好きで、こうした長い休みの時は必ず図書館に入り浸っていたのだ。
 守は守なりに休暇を楽しんでいた。
 図書館は市街地から離れていて、利用には少々不便である。もっと近くにあればいいのに、と守は思うが、多くの書物を抱えるには郊外が適しているのだ。仕方ないことだろう。
 守は県道から逸れ、細長い脇道に入った。山の中を複雑に通っている、地元民にもあまり知られていない近道だ。
 自転車が朝の爽やかな空気を切り裂き、山道を軽やかに抜けていく。
 古びたガードレールが道と林の境界線を作っている。これから昇っていくであろう太陽は、木々に遮られてはっきりとは見えない。蝉の声が、風と合わせるかのように元気な合唱を響かせている。
 そんな朝の山道を守の自転車は走り──そして止まった。
 道の真ん中に小さな人影が倒れていた。
 守は目を見開くと、急いで自転車から降りた。すぐさま駆け寄り、その影を確かめる。
「君、だい…」
 言葉が途中で切れた。思わず息が止まる。
 その少女は傷だらけだった。
 顔には殴られたような痕があり、ひどく腫れ上がっていた。服はぼろぼろで、引き裂かれたスカートは下着さえろくに隠せていない。腕や脚にもはっきりと痣が浮いていた。
 何をされたかは明らかだった。守は深いショックを受ける。
 少女は仰向けの体勢で虚空を、眺めていなかった。
 目に意志がなかった。まばたきと、呼吸のために微かに胸を動かす以外は、何の動きも見せていない。
 守は携帯電話を使って、すぐさま救急車を呼んだ。慌てることなく速やかに状況を伝えると、少女に囁いた。
「今救急車を呼んだから、もう大丈夫だ。安心して」
「……」
 返事はない。守は気にすることなく、バッグからペットボトルを取り出す。
「水、飲めるかな?」
「……」
「無理に飲む必要はないけど、飲めるなら飲んだ方がいい」
 本当は応急処置を施してやりたいが、そんな知識はなかった。水分補給を勧めたのは代わりのようなものだ。
「……」
 少女は何も言わない。
 意識はあるのだろうが、周りに向いていない。心を閉ざすことで身に起こった嫌な出来事を忘れようとしているのかもしれない。
 守はしばらく悩んだ末に、小さく深呼吸をした。心を穏やかな水面のように静め、そして少女の耳元で言葉を囁く。
『大丈夫』
 その、ただ一言に、少女の目が動いた。
 それまで死人のようだった目に光が戻り、呆然とした顔で守を見やる。
 守は安心の息を吐くと、優しく微笑みかけた。
「体、痛いよね。すぐに救急車が来るから安心して」
「……」
 沈黙。
 だがさっきまでのだんまりとは違う。少女の顔にははっきりと意識が戻っていて、目の前の青年をぼんやりと見つめていた。
「水、いる?」
「……」
 十秒ほどの間を置いて、少女はゆっくりと頷いた。
 腕は動かせないようなので、口にペットボトルを近付けてやる。慎重に傾けて少量注ぐと、ごくりと喉が音を立てた。
 瞬間、少女は顔を歪めた。腫れた頬が痛むのだろう。口の中も切っているかもしれない。
「……まだ飲む?」
 五秒の間の後、首を縦に動かす。再びボトルを寄せて、水を落としてやる。苦悶の表情を浮かべながらも、確実に飲み込んでいった。
 とても、静かだった。
 蝉の鳴き声が止んでいる。遠くの方で微かに聞こえるだけで、周囲の林からは合唱が消えている。
徐々に強さを増す陽光が、木々の合間を縫って斜めに降っている。
 夏の暑さに涼しい風が、二人だけの道を小走りに駆けていく。
 傷だらけの少女を癒すかのように、自然はこんなにも穏やかで優しい。一人よがりの錯覚だとしても、守は癒してほしいと思った。
 もちろんそんな幻想的なことは一切なく、少女は残酷なまでに重傷だった。
 どういう経緯でこのような目に遭ったのか気になる。しかしそれは警察の仕事であるし、守にそれを問いただす気は微塵もなかった。
 今はただ、この少女が不安にならないよう、そばにいてやるだけだ。
 穏やかな空気の中、青年は少女をいたわり続ける。

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