◇ ◇ ◇
真夏の日射が容赦なく俺の体を熱する。
俺は走る。急いで縁を取り戻しに。
ゆかりに対して抱いていた違和感は、もう完全に消えていた。
あれはゆかりが変わってしまったために感じたわけじゃない。そもそもゆかりは昔と比べてそんなに変わったのだろうか。
違うような気がする。本質的なものは何も変わってないと思う。
変わったのは俺の方だった。俺がゆかりの心情を理解出来なくなっていたために、彼女の方が変わってしまったのだと勝手に勘違いしてしまったのだ。
それが、違和感の正体。
伝えなければならない。今度こそ俺の想いを。
理解しなければならない。今のあいつの心を。
運動不足のせいか、脇腹が凄まじく痛い。きりきりと万力で内臓を潰されているみたいだ。熱もひどい。日射しがストーブのように強烈な熱を送り込んでくる。
それでも足を止める気はさらさらない。日射病も熱射病も、今はどうでもよかった。
早く会わなければならなかった。
俺はひたすらに走る。
ゆかりの家の前に着くと、俺はがっくりと膝をつきそうになった。
が、なんとか力を入れてこらえる。へばっている場合じゃない。
深呼吸を何度も繰り返し、少しずつ息を整える。額の汗を腕で拭い、心拍数が減るのをひたすら待った。
心臓の音が耳に響かなくなる。ようやく、体を元に戻し、
「あ……」
か細い声が聞こえたのはそのときだった。
駅方向の道の先に、制服姿のゆかりが立ち尽くしていた。俺の顔を見て、呆けたように固まっている。
「ゆかり……よかった。会えた」
泣きたいくらいに安心した。本当に、もう会えないかもしれないという不安があったのだ。
だが、駆け寄ろうとする俺に、ゆかりは顔を背ける。反射的に足を止めた。
「来ないで」
「ゆかり」
「昨日の今日だよ。会いたくなかった」
ゆかりは目を伏せる。これでは彼女の内面が読み取れない。
俺は止めた足を再び前に踏み出す。
「今日会わなきゃ駄目だと思ったんだ。そうじゃないと、手遅れになると思ったから」
すぐ目の前まで近寄る。
「ゆかり」
「……」
ゆかりは目を合わせてくれない。
「今ならはっきり言える。もう一度、言うよ」
黒髪が頑なにうつ向いた顔を隠している。
それでも、俺は言う。
「好きだ、ゆかり」
「……うそ、つき」
「うそかどうか、確かめろよ」
俺はゆかりの両肩を掴み、顔を上げさせた。
俺がそうするように、彼女にもできるはずだ。
ゆかりの辛そうな目がこちらの顔を捉える。俺は怯まない。その目の奥を、心を理解し合うために、じっと見つめる。
瞬間、俺は力が抜けそうなくらい安堵した。
「よかった……」
「え?」
小さく声を上げるゆかり。
「ゆかりが俺のことを嫌ってないってわかって、すげえほっとしてる」
「な、なにを」
「目の奥は嘘をつけないな」
ゆかりの表情が固まった。
「昔は簡単にお前の考えが読めたんだ。でも久々に会って全然わからなかった。昨日までの俺じゃゆかりのことを理解出来なかった。けど、今ならわかる。はっきりと、わかる」
「……」
あれほど悩んでいた違和感は、今はどこにもない。あるのは幼なじみに対する強い想いだけだ。
ゆかりはしばらく俺の顔を見つめていた。
俺は目を反らさない。反らすはずがない。
ゆかりはほう、と小さく吐息した。そして、
「懐かしい」
そう言った。
「懐かしい目」
微笑むその顔は小さい頃と変わらない。
俺たちは見つめ合う。
「ごめんな、寂しい思いさせて」
「ごめんね、ひどいこと言っちゃって」
互いに謝って、俺たちはくすくす笑い合った。
そこで突然音がした。
振り向くと、ゆかりの家のドアが開いて、線の細い女性が出てきた。
一瞬戸惑ったが、すぐに義母と気付く。前に見掛けたことくらいはあったかもしれないが、顔は覚えていなかった。
「戻ってたのね。あら、そちらの子は?」
義母が首を傾げる。
「幼なじみなの。久々に会ったから」
「こんにちは。沢野と言います」
とりあえず無難に挨拶をする。
義母は珍しげに俺を見やり、それから柔和な笑みを浮かべた。
「そう。優しそうな方ね。仲良くしてやってね」
「あ、はい」
反射的に頭を下げる。
義母というだけでなんとなくいい印象を持っていなかったのだが、それはどうやら勝手な思い込みだったようだ。こうして振る舞いを見る限りでは、人のよさそうな感じだ。
義母は小さなハンドバッグを提げ、玄関から出てきた。
「私、今から買い物に行ってくるから、留守番お願いできるかしら?」
ゆかりは頷き、笑みを返した。
「うん。遅くなる?」
「少しね。七時には帰ってくるから」
「わかった。行ってらっしゃい、お母さん」
義母はなぜか驚いたように目を見開いた。しかしすぐに微笑んで、
「ええ、行ってくるわね、ゆかり」
今度はゆかりの表情が揺れたが、すぐにそれは消える。
離れていく後ろ姿を見送るゆかりは、どこか穏やかで嬉しげだった。
「仲良くやってるんだな」
「うん。でも初めてだった。お母さんって言ったの」
「……そうなのか?」
「やっぱり恥ずかしかったから……呼び捨てにされたのも初めて。ずっとちゃん付けで呼ばれてたのに」
顔がほんのり赤い。ささやかながら、それはとても大きなことだったのだろう。
よく真希にしてやるように、俺はゆかりの頭を撫でた。
「……ねえ」
「ん?」
「暑いから、早く入ろうよ」
「……ん?」
急に手を引かれて、俺はつんのめる。さっきまで全力で走っていたので、足が疲労で震えた。
「休んでいって」
「あ、でも家は近くだし──」
「……」
目に少し不満の色が見えた。慌てて口をつぐみ、俺は頷く。
表情が和らいだ。
まずい。なんだかペースを握られているような気がする。留守番を頼まれたということは、今家には誰もいないんじゃないか。
「……」
どこか昔に戻った気がする。無口で人見知りするくせに俺にだけはなついていたゆかり。でもそうやってそばにいることが俺は内心嬉しくて、ゆかりの頼みごとにはずっと弱かったと思う。
文句とともに言うことを聞いてやると、とても嬉しそうに笑ったから。
その笑顔に、俺の心はとっくの昔にとらわれていて、薄らいでいた想いも目の前に現れた顔があっという間に元に戻してくれて、
たぶんこれからも、この幼なじみには勝てないだろうと思う。
そんな自分を情けないとは思わない。負けても仕方がないことというのは、確かにあるのだ。
ゆかりは俺の手を引いてそのまま家の中に入ろうとする。
俺は疲労一杯の足を引きずり、ゆかりの後に続いた。